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お寺の掲示板 【No.40/柊原のお寺・真宗寺/2024.6月】


人生を転ばぬ杖が宗教に在らず 
転んださきの大地 見上げた天 
こさえた杖の用だたぬ様 
これが宗教である

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普通、宗教とは厄除開運のことかと思われる向きがある。「魔除け」「招福」「願掛け」。吉凶を占い、身の幸福を祈り、不幸を逃れ、また色んな願い事を祈祷する。

一方、真宗という宗教は「ああしてほしい」「こうなりたい」とか、我々の思いを具に叶えてゆけるものではない。人生にはどんなに切に欲しても叶わない思いがある。我々はその現実の上でしか生きられない。頭(心)は「理想」に夢見しているが、この身は「実際」に置いてけぼり。この乖離が我が身を引き裂くような痛みにもなる。

こちらのお願いごとを持ち込むのが仏教やお寺の役割のように思われがちだが、実は矢印の向きが反対。仏陀の願いを聞いてゆくのが真宗という仏道の道程である。煩悩尽きないこんな私に「自身に目覚めよ」と願いかけ続けるものがある。私に先んじて私を慮ってくれていた存在がある。自分では望んでないかもしれない、「今」、「ここ」に在る自身に対し、まず「そのまままるまるの貴方が尊い」と言ってくれている存在を通して、我が身を安んじるのだ。

さて、この言葉で、特定の宗教宗派や誰かを批判したいのではない。

問題なのは宗教心かに見える我々の欲望や自己都合。

そんなハリボテの、私の、我々の宗教心をこそ問うているのだ。

厄除開運の宗教心もある。

一方で、弓折れ矢尽き、悉く望み破れたどん底に、尚も注がれる愛や慈悲もある。



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