お寺の掲示板 【No.7/柊原のお寺・真宗寺/2021.8月】
【掲示板の言葉】
生死は我等の自由に
指定し得るものにあらざるなり
この言葉は近代真宗教学の祖、清澤満之(きよざわまんし)の言葉です。
生き死には自分で好きに取り扱える事柄ではありません。自己を超えた自然の催しです。しかし我々はかねて、生死も命もあたかも、自分の権能の中のものだと錯覚しております。
授かった「生」に、いつ迎えるかわからない「死」のはずが、かねての我々は、自身の存在そのものがいただきものだということを忘れて、これを我がもの顔で扱い、また、いつか終わりが来るなんて考えず、命について考え迫ることなく日暮らししてます。
それは生死を自分の裁量のもとにあるものと思っていることの表れかもしれません。
一方で、極限の状態に立たされれば殊更、切実に「生きたい」とか「死にたい」とか、生死を自由に指定しようと思うでしょう。
しかし、いくら自分が絶望し、もうダメだと思う最中も、心臓は脈打ち、血潮は巡り、体は私を生かそう生かそうとしているはずです。
いのちとはいったい誰のものなのでしょうか。
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