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視覚優位と聴覚優位、言語優位について

去年、学生の間で一番使われていると教えてもらったTiktokを使ってみたが、情報量の多さと視線位置の落ち着かなさなどから早々に使うのをやめた。どうやらわたしには合わなかったようだった。

友人から勧められるYoutube動画を見ることも多々あるし、Amazon prime videoで動画もよく見るけれど、アニメ・ドラマ・映画などストーリーを楽しむものは何度も見られるが、情報を得るための動画はちょっと苦手だ。

普段会話していると、同音異義語が紛れるときには少し話を遮るかちょうどいいタイミングでその言葉の漢字を確認することが多々ある。私の耳は類音を聞き間違うことも多いので、ここでよく確認する(幸いなことに、聞き間違いによる自然のボケで笑いになることが多いのは嬉しい)。

Duolingoという言語アプリでリスニングから文字起こしする際、単語が多々抜ける。大筋があっているのに形容詞や副詞が多々抜ける。聞くだけでは脳内に情報を留めて置けないらしい。

何か新しい情報に触れるとき、まず真っ先にweb検索するか、類する書籍を探す。

誰かの名前を覚えるとき、漢字表記がわからないと覚えられない。ひらがなのられつだけでは頭に入らない。人の名前を思い出すとき、音よりも先に文字を思い浮かべることが多い。「カタチ」のセットして脳内に収納されているらしい。

総合すると、視覚も強いんだけど、言語が優位なのかなと思う。

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会話しているとき、目の前の人がスマホをいじっているとして、それが果たして「話を聞いていない」と判断して良いのかどうか悩むことがある。

例えば、知らない言葉をこちらが使ったので、その言葉を調べているかもしれないし、今紹介したものをAmazonで調べているかもしれないし、まぁひょっとしたら恋人へのLINEを送っている最中かもしれない。

学校でも普段の会話でも同じことが言えて、ノートを取らないからと言って話をきいていないとも限らないし、テキストに線を引かないからと言って不真面目なわけではないだろうし、顔をあげて話を聞いて欲しいときに下を向いているからと言って反抗しているわけでもないだろうし、目を瞑っているからって寝ているとも限らないだろう。

少なくとも私は、そういった広い意味で相手が不快にならない&誤解を生まないよう振る舞いたいとは思っているけれど、そうすると自分のスキルのうちの一部を気遣いに回している分、必然的に効率は落ちる。

うーん。書いてみて思うけれど、効率的なことがいつも最善とは限らないというか、むしろ機械的で非人情的かもしれないと考えると、やはり気遣いしながらのコミュニケーションの方がお互いにいいのかもしれない。

でもでも、学校で考えるとやっぱりちょっと違うかな。学生の知的成長を最優先とするならば、先生が「学生は今目を瞑っている。寝ているのかもしれない。ヤツは不真面目だ。減点してやる」とするのは早計で、個人的心情に囚われていると考え、もっと先生としての寛容さを広くした方がいいのではないかと思う。

言語優位・視覚優位ならば文字として書き起こす方が頭に入りやすいだろうけれど、聴覚優位であれば聞くだけ充分思考できるのかもしれない。(かもしれない、としているのは、私はたぶん聴覚優位ではないから)。

聴覚優位の場合、もしかしたら目を瞑って視覚を遮った方が思考が働きやすいかもしれない。

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この間保育士試験を受けたときに学んだことに、
「小さい子供はまだ体が未発達なので、声の大きさの調節もまだ充分にはできない」
というものがあった。

言われてみれば当然だけれど、私はすごく納得して、それ以来電車やバスでの子供の大きめの声が気にならなくなった。

「今、声の大きさを調節しようと頑張っている時期なんだね(´∀`)」

と脳内で呟きながら優しく微笑むようになった。

知ることで優しくなれる部分は多くあると思う。
視覚優位や聴覚優位などの特性を知ることで、よりお互いに優しくなれるのなら、そういう情報などももっと広まって欲しいし、お互いの違いを受け入れる寛容さも広がって欲しいなと思う。


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