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なかなか感想文が書けなかったあの頃を思い出す

幼い頃から、読書感想文なるものが嫌いだった。

何かの図書を読み、思ったことを書く。
らしい。

「思ったこと」というのが曲者だった。

どうやら世の中には感想文をうまく書く人もいるようで、なにがしかの賞を受ける人もいる。
私にはそれがにわかに信じがたかった。

当時の自分の言い分はこうだ。

「読んだところで何も思わない。以上。」



小・中学生の頃によく読んでいたのは、赤川次郎さんの小説だ。特に三毛猫ホームズシリーズは全巻読んでいた。

これはいわゆる推理サスペンスもので、物語は事件発生の場面から始まるか、レギュラーメンバーの会話から始まった。

このシリーズの好きだったところは、とにかく会話文が多く、幼い自分でも軽快に読み進められたところ。また、登場人物に必ずツッコミどころがあり、読みながらクスッと笑える場面が多々あることだ。

今大人になった自分が過去の自分を振り返ると、「なんてませたガキなんだ・・・」と苦笑いするが、思えば私がサスペンスものにはまっていくのには理由があったのではないかと思う。



小学生の頃、母がたまに本を買ってくれた。
私の望むと望まざるとに関係なくだ。
その中の一つで忘れ難いのが「はれときどきぶたシリーズ」だ。

著者や巻数を忘れたので調べてみる。

(調査中)

著者は矢玉四郎さん。
我が家にあった本は、

はれときどきぶた
あしたぶたの日ぶたじかん
ぼくときどきぶた
ぼくへそまでまんが
ゆめからゆめんぼ

の5冊だ。
どうやらその後もシリーズは続いていたようだが、母が買ってきてくれたのはおそらく当時発刊されていたものの全てだったのだろう。記憶では、母はある日突然5冊買ってきた。

今思い出せる、当時の私の記憶では、感想は一言。

「バカバカしい。」

正直、あまり好きではなかった。

あの頃は、実家の電話機を置く竹ひごかなにかで編まれてできている棚があったのだが、その棚の上段にはれぶたシリーズが陣取っていた。それも5冊全部。

棚は部屋の入り口にほど近いところに陣取っており、部屋を出ようとするたび必ず視界に入る。
幼いながらに、母が私を思ってくれていることに後ろめたさでもあったのか、結局のところ私はそれらの本を読んだ。



中学生の頃、るろうに剣心のアニメが放送されていた。
大層はまっていた私は、習い事でその時間留守にするときには、父にビデオの録画を懇願したものだった。

るろうに剣心には「沖田総司」なるキャラクターが登場する。このキャラは設定では「喜怒哀楽の“楽”以外の感情が欠落している」と言われていた。

大人になった今でもこのフレーズを覚えているところを見るに、このキャラクターは思った以上に私に何かの印象を残していたらしい。

一つには、羨ましい、と。

あの頃はあまり気づいていなかったが、どうやら私は感情表現が苦手だった。

あの頃を知る友人らに言わせれば「んなわけあるか!」と一笑に付されそうだが、実際そうだったのだ。

というのも、思ったことを思った通り口に出すことがほぼなかった。
先ほどのキャラクター沖田総司のように、いわゆる「楽」にあたる楽しい感情や楽しい表現は、何も考えずなすがままに出せていたのだが、それ以外の感情は面白いほど自分の中で一時停止するのだ。

それはまるで、警察が見張っていることを恐れているかのようだった。

楽以外の感情を感じると、顔がフリーズする。もしくは表情が固くなる。それが強いと眉間にシワがよる。

周りからすれば、何か思わしくない感情を抱いていることは一目瞭然なのだろう。
だいたい心配の声をかけられるか、あるいは無視される。

が、そこで私はさらに無視する。少し余裕があれば「大丈夫」と流す。

とまぁ、こんな状態だったわけで、つまるところ、楽以外の感情は、存在は知覚できるけれど言語化することはできなかった。
というか、したくなかったのだ。

表現したくないのだから、表現方法が身につくはずもない。
私の感想は常に

「面白かった」
「楽しかった」
「悲しかった」

など、ありきたりで、かつ上っ面な表現にとどまることになる。



不思議なのは、ではどうして今は書けるようになってきたのか?ということだ。

きっかけは主に3段階ある。

1つ目は、内側の変化。
2つ目と3つ目は良書との出会いだ。

良書との出会いは、本記事ではそのタイトルのみ述べ、詳細はまた後日別の機会に書こうと思う。

(きっかけを得た良書 2冊
・「なぜあなたの話は「通じない」のか」
山田ズーニー

https://www.amazon.co.jp/dp/4480422803/


・「読みたいことを、書けばいい」
田中泰延

https://www.amazon.co.jp/dp/447810722X/

以上)

さて、1つ目の内側の変化とは。
つまるところ、私は変わりたかった。これまでの自分に飽き飽きしていた。

気がつくと、できない理由を掲げ、大層ご立派な理由をぶち上げては自分を守り、相手を批判し、逃げて逃げて逃げてきた。

一方で、自分を飾ることにも余念がなかった。まるで輝かしい実績があるかのように見せたり、そのように振舞ったり。“できる自分”のアピールを欠かさなかった。

だが、内側が空っぽな虚像は、照り続ける美しき太陽の眩しさに、いつか負ける時が来る。

常に頭上に在るそのものと自分を比してしまうのだ。そう意識しまいと意識することでより比することが深まる。

なんと愚かなことだろう。

もう、

いい加減、

やめよう。

そう決めた時から、ゆっくりと、本当にゆっくりと、私は変わり始めた。

私を一番変えてくれたのは、「問い」だ。

「なぜ?」

たったこれだけの魔法の質問。

なぜ私は虚像を作ってまで自分を偽ったの?

すると、溢れるように「問い」が生まれた。

虚像ってなんだ?
自分ってなんだ?
他の人はどうなんだ?
自分と他の人は何が違うんだ?
・・・

数々の輝かしい人々を観察するにつけ、だんだんとわかってきたことがある。

それは、

『皆内省がうまい』

ということだ。

何かをする、こう感じた。でもそれはこうじゃないか?おかしい。疑問に思ったから次はこうしてみた。こう感じた。やっぱりこうだった。正しかった。次はこうしてみよう。

などなど。
自分の行ったことについて、正しく直視し、次に繋がるように反省をする。後ろ向きな「責め」ではなく、前に進むために何が必要かを問う反省だ。

私はこれまで、「反省」とは自己を責めることだと思っていた。

なぜできないのか。
自分はまだまだだ。
●●さんにも劣るダメ人間だ。
もっとやればいいだけなのになぜできない。
エトセトラエトセトラ。

輝かしい人々から学んだことはもう一つある。それは、

『皆、表現が深く多彩』

ということだ。

事実の示し方、感情の表現の仕方、全体の構成、惹きつけ方、そして終わり方と次への繋げ方。

不思議なことに、これは文字数を問わない。

先日、禅僧の升野俊明さんの文章に触れる機会があった。

そこからTwitterを見ることになるのだが、あの短文の美しさ、流れやかさ、心洗われる感じはとても不思議である。機会あればぜひ触れてみてほしい。


たった20〜30文字程度であってもそれは変わらなかった。本当に不思議だ。

ここで至ったのは、自分自身についてどれだけ多くを見て、どれだけ多くを言語化し、どれだけ多くを素直に捉えるかで人の言葉は変わるのだと。

そして、その頃には自然と自分は変わっているであろうと。

私は感想文が苦手だった。

それが、今では少しずつ変わりつつある。

多種多様な作家さんの言葉に触れるたび、自分の内に潜む感情の言語化の仕方を得る。

結局のところ、私は自分の内側に潜む感情を直視することを忌み嫌い、モヤモヤのままにずっと生きようとしていたのだ。
だから、私の口をついて出る言葉は自然、大雑把で雲をつかむようで誰にでも当てはまるようで力のないものとなった。

だが、世界には自分の内側と向き合い、さらにそれを外側にさらすことを厭わない人が沢山いる。
外側に晒しても難なく生きているのだ。
むしろ、勇気を持ってさらすことで、無二の仲間を得ているようにすら見える。

これはどうやら、訓練さえ積めば誰にでもできるらしい。
そしてどうやら、私はすでにその道程に足を踏み入れているらしい。

今後のさらなる自分の変化に期待しながら、今回は筆を置く。


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