卑屈を正当化する術がどんどん上手になってきた

 自分は生きる中で何が嫌で、何が苦しくて、何が苦手で、何がやってられないのか。入り乱れすぎててもうよく分からない。
とにかく、この2年くらいで屁理屈を考えることだけは圧倒的に得意になってしまった。

 自意識を捨てられないだけのか、プライドを捨てられないだけのか、世間体を守りたいだけなのか、自己中・利己的なだけなのか。
今はどれを守りたくて捨てられなくて、逆に何なら捨てられるのか。

 過剰な自意識に苛まれて、悪く見られたくなくて、その結果身動きが取れなくなる日もある。
 自分は持ってないと思っていたプライドを、守りたい日もある。
 世間体を気にして、良く見られようとしてしまう日もある。
 自己犠牲で全てが丸く収まるって分かっているのに、利己に走ってしまう日もある。

 今日は、どの日だろうか。



 「自分はカラオケというものが苦手なんだ」と明確に思った日のことを明確に覚えている。
 幼稚園生の頃、幼馴染の2家族と一緒に地元の祭の後にカラオケに行った。
その時、何を歌っていいのかが分からなかった。
単純に僕は曲を知らなかった。別に、それだけのことだった。
 中学生くらいの時、毎月とは言わないまでもそれなりの頻度でカラオケに行っている人が仲の良い友人の中にもちらほらいた。
月1000円ぽっちのお小遣いではカラオケなんて行けない。
だからと言って「カラオケ行きたい」と親にも頼めなかった。
それと、「俺は歌が下手だ」という自覚があった。親にも言われてきた。
 高校生になり、お小遣いが月5000円くらいになった。
そして、2年の夏から生徒会に入った。
新規委員の歓迎会をカラオケでやると言われて、嘘をついて断った。
ほぼ初対面の人の視線が自分に集まるのが怖かった。
歌が下手だと、思われたくなかった。
予餞会や文化祭をやるとなれば委員会が発足され、そこに新たに集まる同級生とはなんとなく仲良くなっていった。
今思うと不思議だが、わちゃわちゃ話してて楽しいなぁと思える人しかいなかった。
放課後にみんなでラーメンやらカレーやらを食べに行く日も多かった。
行事ごとが終わればすぐ、打ち上げの日程決めが始まる。
飯食うだけなら良いのに、「昼からカラオケをしよう」と言い出す奴がいる。
心の底から行きたくなかった。
でも、ノリが悪い奴だと思われたくないから行った。
歌が下手だと思われたくないから歌いたくなかった。
でも、ノリが悪い奴だと思われたくないから歌った。
結局、ドリンクバーへ行く回数とトイレに逃げる回数が増えた。
一度、生徒会・委員会の中の仲の良い5・6人くらいでカラオケに行く機会があった。
その時はなんとなく「特に親交が深い人なら別に良いか」と思った。
その日は、しっかりと歌う番が回ってくるタイプだった。
僕は知ってる曲があまりにも少なすぎて、歌いやすい曲、歌いにくい曲、メジャーな曲、マイナーな曲とかを気にしている余裕はなかった。
俺が歌っている間、全員ドリンクバーかトイレに行って欲しい。
それかスマホをいじって無関心でいて欲しい。
欲を言えば、一緒に歌っててくれたら嬉しい。
途中からみんなスマホをいじってたけど、どうせ「歌下手だな〜」って笑いを堪えてんだろうなとか思ってしまっていた。
いや、一度も「歌下手だな」と思わない方が難しいだろうと推察する。
 大学生になり、Twitterの趣味垢なるものを始めた。
一人カラオケに行っている人を見かけ、興味が湧いたので自分も一度行ってみた。
独りなら、冷ややかな目線で見られる心配はないと思ったからだ。
一曲入れて、歌ってみる。
忘れていたが、俺は歌が下手だった。
独りの空間に響き渡る自分の声に、反吐が出た。
自分のことが一番嫌いなのは紛れもない、自分だった。
受付で「2時間でお願いします」となんとなく言ってしまったことへの後悔が募る。
開始3分で、どうしても退出したくなってしまった。
結局、その日はマイクを使わずに2時間歌い、それで幾許か気持ちがマシになった。
自分がメインの場所なんて、この世には一つもいらない。


歌が下手だと思われたくない(=マイナスに思われたくない)、という自意識。
だから、誘いを断わりたかった。
だから、カラオケに行きたくなかった。
だから、カラオケで歌いたくなかった。

ノリが悪いと奴だと思われたくない(=マイナスに思われたくない)、という世間体。
だから、誘いを断れなかった。
だから、カラオケに行った。
だから、カラオケで歌った。

歌が上手いと思われたい(=プラスに思われたい)、というプライドはすぐ捨てられた。
ノリが良い奴だと思われたい(=プラスに思われたい)、というプライドは捨てられなかった。


自意識の方を捨てられる時の方がどちらかと言えば多い。
でも、世間体の方を捨てられる時もたまにある。

自己犠牲で別に円滑に事が進むなら、俺はそっちで別に良い。
でもたまに、勇気を持って、自分の精神衛生のために、思い切って断れたりする時もある。

こういう綱渡りみたいな生き方を今後も一生するしかないと思っている。



 この前、久しぶりに他人とカラオケで歌った。凄く楽しかった。
カラオケに行くかどうかで僕が答えられずに悩んだ時間が凄く不毛で、無駄で、生産性がなくて、カラオケを出る時間が近づくにつれて凄く申し訳ない気持ちになった。



 「僕歌下手なんですけど、それでも良いなら行きましょう」って前置きして、ちゃ〜〜〜んと歌が下手な奴。
 「カラオケ行っちゃいましょうよぉぉおお!」ってノリ気のくせに、歌は上手くない奴。

 自意識過剰であるがゆえに前置きして相手に釘を刺して責任をなすりつける人と、ノリと雰囲気だけで世間体を押し切る人。

 どっちの方が自意識を守れているのか。どっちの方が世間体を守れているのか。どっちの方がプライドを保てているのか。
 どっちの方が人間味があって、らしさがあって、好感がもたれて、生きやすいのだろうか。どっちの方が生きてて楽しいのだろうか。



 自意識全開で徹底的に塞ぎ込んで生きていきたいけど、いつまでもそれじゃダメなことも分かっている。
これから先も塞ぎ込んでいくための言い訳は、暇さえあれば書いてきた大量のnoteにしこたま残っている。
大学で新たな友達を作っていないことも、バイト先の誰とも仲良くなっていないことも、恋人ができたことがないことも、自意識で誘いを断れないことも誘えもしないことも、正論とはかけ離れてるが全部全部全部全部、言い訳ができる。

 太宰治の『人間失格』の主人公、大庭葉蔵おおばようぞうの気持ちが分かる。世間のいわゆる“普通”が理解できなくて、お道化どけることでしかその“人間”の世界にとどまれなかった。葉蔵にとって、お道化ることが、“人間”の世界へ対する最後へのアプローチであった。結果、薬に溺れ、“人間”からこぼれ落ちていく。
 葉蔵は、面白いことをして周りを笑わせ(てあげ)る。
葉蔵のような道化どうけは俺には演じられないけど、道化に至る動機は僕と似ているなと思った。
生粋の“千両道化”である葉蔵と僕は似ても似つかない人間である。
葉蔵とは違って、僕は異性にモテるような大層な人間では到底ない。
道化の才能もない。
でも、お道化ることでしか“人間”の輪に入れないという点で共感が止まらなかった。

 嘘をついて”普通”に迎合することでしか”人間”の仲間に入れないなら、それをし続けてやりたい。


 この先の自分の人生を、自分で狭めている自覚はある。
広げることもできなくしている。
世にいう”幸せ”を享受するこれから先の僕を、”享受”できていないこれまでの僕は全力で嫌うと思う。
Creepy Nutsの『15才』という曲が頭をよぎる。
どちらも「地続き」であるはずなのにどうも受け入れてくれる気がしないのは、自分の”幸せ”を自分が一番望んでないという証拠だなと思う。

 高校生の時は「モテない」って言うだけ別に成立していた。
二十歳を超えた野郎大学生で、別に共学で、バイトもしていて、異性との接点が0というわけではない。
その上で、、、、、、、という話は「お前が何もしようとしないからだろ」というなんの変哲もない正論でも木っ端微塵にできる。
「お前が全部悪い」、そう言われている気分になる。
そうなったら最後、持ち前の屁理屈を並べることしかできない。
みっともないけど、「俺は好きでもない自分のためにこんなにたくさん考えたんだぞ!その結果諦めたんだ!」と言い張ることしかできない。

 好きな人たちがご結婚され、赤ちゃんを授かり、子育てをし、そういった話をテレビやラジオで見聴きする。
聞いているだけで幸せが伝わってきて、微笑ましくて、烏滸がましいけど心の底から素敵な家族だなぁと感じて、幸せを分けてもらった気分にもなって、烏滸がましいけど勝手に憧れを抱いている。

 好きな人たちの影響で、本を読むようになった。
こっちの価値観をバッサバサ揺さぶってくる小説が好きだ。
読んでいる僕らの存在を否定してこないエッセイに支えられて生きている。
 その度に、否定しちゃいけない価値観や考え方の多さに気がついて、「俺は今後、絶対否定しないようにしよう」と決意する。
「それまでは否定していた」ということではなくて、人それぞれ行動原理があって、原体験があって、それぞれの思考と論理がある。
良し悪しの前にまずそれを第三者が推察することに確実に意味があると僕は思う。
俺の中で否定できない考えや価値観がどんどん増えていく。
 でも、こっちの価値観や考えを理解されたことなんてほとんどない。
 価値観が違う人に、こちらの価値観をこの先理解してもらえる兆しもない。






 こっちばっかり懐を深くして、受け皿大きくして、「確かにね」って頷いて、馬鹿みたい。







#300  卑屈を正当化する術がどんどん上手になってきた

そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

太宰治『人間失格』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?