雑記⑤「否定をやめた先」

1つの繋がった話だと思ってもらうとわかりやすいような気がします。

1.DJ機材

若林さんがエッセイに書いていた一文で、僕の生きる希望のようになっている言葉があります。

このあいだ、ついにぼくはDJ機器を買った。それを否定する人はこの世界に誰もいなかった。
若林正恭「ナナメの夕暮れ」p.163 ℓ.14

文化祭でいまいちはしゃげなかったりテンションを上げられない自分がいる。
楽しくないわけじゃなくて、いい意味での”バカ”になれない。
そんな自分のことも、「文化祭ではしゃいでる奴、子供だな。」と思っていれば正当化することができる。
相手を卑下することで相対的に上になった気になれる。
これを"価値下げ”などと言ったりします。
でもそれは、巡り巡って自分が文化祭ではしゃげなくなることにも直結する。
最初は純粋な”恥ずかしさ"だったとしても、別の抑止力が幅を利かせてくる。
周りの人に「文化祭ではしゃいで、子供だな。」と思われるのが怖いのではなく、それを思っていた"過去の自分"や思っている”現在進行形の自分”が後ろに立って見ている気がしてできなくなってしまう。
そしてそれを解消するためには、まず自分が「文化祭ではしゃいでる奴、子供だな。」という価値下げをするのを辞めれば良い。

結局、自分が価値下げをしたところで価値下げをしてくる人はいる。
"自分の目”を気にせずに文化祭ではしゃぐ僕を見て、「文化祭ではしゃいで、子供だな。」と価値下げしてくる誰かは存在し続ける。
でも、こちらは「価値下げをしてしまう心理」というものを理解できる。
だから、そいつの価値下げを気に留めることがなくなる。
価値下げをしてくる人とは、話が合って分かり合えるはず。

この考えに早く納得できる日が来ないかな〜。
ずっとそう思っていた。


2.否定

「自分がされたくないことはしない」と言ってしまうと少し単純すぎるのですが、大枠はこれと思ってもらって構いません。
恋人がいる人に対して、”モテないやつの妬み・嫉み"を振りかざすことは僕はしないようにしています。
咄嗟に思ってしまうことはありますが、意識的に口にも出さないし文字にもしないようにしています。
その代わり、「恋人がいなくて、お金も時間も自分のためだけに使っていて、女性との会話に日々神経を使ってしまっている僕みたいな人のことを否定してくんなよ?」と思ってしまいます。

「否定しないから否定してこないで」という思考です。
でもいるんですよね、否定してくる人。

「人としておかしい」だとか、「幸せじゃなさそう」だとか。

こういう否定をしてくる人と、話が合うとは僕は思えません。



3.ラジオ

ラジオの改編予想みたいなのは、僕は好きじゃありません。
「この枠が終わって、この枠が昇格して、この枠は降格で、この枠はこの人の新番組かな」みたいな。

「この人の番組始まってほしい」みたいな想像は別に構いません。
ラジオを聴くようになって、「この人のラジオ聴いてみたい」という物差しができました。
賞レースを見てる時、「良い声だなぁ」と思うことも多いです。
ここまでは誰も不幸じゃないのでウェルカムですらあります。

そして、改編予想の嫌なところは「終わる番組予想」があることです。
その人が終わると予想をしてる番組にも、毎週楽しみにしているリスナーがいることがなんで想像できないんですかね。
同じラジオリスナーなんですよね?

改編予想で終わると予想されている番組を見て、「この人はこの番組のリスナーじゃないんだな〜」と思います。
終わると思って番組を聴いているリスナーなんか、まずいないと思うので。

「思ったことなんだから言わせろ」という考えも別にわかります。
そこに関しては何も言うことはありません。
ただ、「ラジオリスナーなんだったら聴いてる番組が終わってしまう悲しみがわかるはずなのになんでそこに配慮できないんだ?」と僕は純粋に思ってしまいます。

自分の番組が終わる予想をされてたらどう思うんですかね。

ただ、こういう人にこれを言ってもどうせ「そう思う人もいるんだからなんとも思わない」って言われるだけなので無駄です。

「実際がどうか」を見るまでは何も言うこともできません。


僕は改編予想みたいなことは絶対にしません。
考えたりもしません。
自分の聴いている番組が終わると予想されるのが嫌だから、僕もそれはしません。

でも、僕が毎週聴いている番組に対して終わる予想する人はいなくなりませんし、改編予想をする人も別にいます。


僕はこういった人と分かり合える気がしません。
気が合うとも思えません。



4.お誘い

僕が誰かを遊びに誘う時、断られるのが怖いです。
だから、誰かからの遊びの誘いは予定がない限り断らないようにしています。
相手がたとえ苦手な人でも。

でも、僕の誘いを断ってくる人、嫌がる人はいなくならないんですよ。
その結果、自分から誰かを誘うことは全くないです。


「自分はこの人から好感を持たれているのか」を考える時、「誘いを断られない」というのは結構有力な気もします。
わざわざ時間を使ってまで苦手な人に会わないだろ、という考えです。

でも僕は、苦手な人からの誘いも断れないんですよ……………。
もう、怖いとかじゃない気がするし、なんでなのかはわかりません。
苦手な人とわざわざ関わることないのもわかってます。
時間と金と労力の無駄なことだってわかってます。
こんな人間関係保つことないのもわかります。

でも、人間関係を切って周りの人に気を使わせて迷惑をかけたことがあるのでそれも怖いです。

「あの時人間関係を切ったのは、自分の精神安定のためには正解だった」と思える夜もあれば、「やっぱり無駄に気を使わせたのは申し訳なかったな。俺だけが苦しめば何事もなく進んだのに」と思う夜もあります。
正解なんかもうわかりません。

今夜の僕は、「俺が苦手な”周りが見えてないタイプの人”は、周りが気を遣ってることにもう気がつかないままでいいから、周りの人達の善意を片っぱしから踏みにじるロクでもない大人としてこの先の人生を生きて、周りからどんどん白い目を向けられて、結果そいつが陰で嫌われてれる姿を肴にお酒を飲みてぇ」です。
だから、「お前ちょっとずれてるよ」「こういうところ直した方がいいよ」みたいなことは言いたくありません。
だって更生しちゃうじゃないですか。
誰にも注意されずに完成形のダメ人間になっていくにつれどんどん酒が美味しくなります。

人間関係が拗れてぐちゃぐちゃになってる話を聞くのが、高校生の時から本当に好きです。
「AさんとBさん、仲悪いんだ〜」という話を聞いた翌日、廊下でAさんとすれ違った後にBさんともすれ違うと、危うく廊下で一人ニヤけてしまいそうになります。



自分がどう思うかは一旦懐にしまって、飲み会で軽く見せて愚痴を言い合うくらいが一番心地いいです。

自分が苦手だと思っていた人が、実は他の人も苦手に思っていたと知った時に脳に分泌される謎の成分が僕は好きです。



こういうことを自分がしているから、ふとした時に「今俺と話してるテンションで、俺の悪口とか愚痴を言ってるんだろうな」と思ってしまいます。



「たりないふたり秋」で若林さんが山里さんに言った「自分の行動原理がそうだからそう見えちゃうんだよ、他人も」という言葉がもう痛いほど刺さります。

世の中の常識で言えば、「苦手な人からの誘いはバレバレの嘘でもいいから断る」が普通なのかもしれない。
世の中の常識で言えば、「苦手な人はブロックをする」が普通なのかもしれない。

だからこそ、「苦手な人からの誘いを断れない自分」「苦手な人でもブロックしないし、あえていいねを押したりする自分」「苦手だけどブロックやミュートをしない自分」が邪魔をしてきます。

「たとえ僕からの遊びの誘いに来てくれたとしても、本当は俺と会いたくないんだろうな」とか、「たとえ僕のツイートにいいねしてくれる人でも、ブロックしてなくても僕のことミュートにしてるかもしれないなぁ。僕のこと苦手に思ってるかもなぁ。」とか思って怖くて身動きできなくなります。




何から解決したらいいですか。

僕が価値下げをやめても、僕のことを否定してくる人がいなくなる予感がしません。





2022年になったくらいから、ゴミみたいな感情が複合して合わさったよくわからない涙が流れます。
なぜか泣けてきて、全部が嫌になります。




明日のお笑いラジオスターライブで、こんな感情全部吹き飛ばしてほしい。
死ぬほど散歩もするし、美味しい定食も食べたい。
夜の都会の街を堪能したい。

だから絶対寝坊しないでくれよな、明日の俺。
Creepy Nutsとウルフルズの対バンの日みたいなヘマ、絶対すんなよ。



すぐ寝付ける気はしないですけど、寝ます。


#253  雑記⑤「否定をやめた先」



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