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器用

物心がついた時から静かな子だった。まだ「人」について興味がなかった。本の方がよっぽど面白かった。 小学生の頃の記憶にはいつも図書館の本のちょっと古い匂いが漂う。友達と遊んだ記憶があまり残っていない。友達はいたけど、学校でたまに喋るだけの程度で、お互いの家を訪れることもなかった。本ばかり読んで、目が悪くなって眼鏡っ娘になった。

小学生の時はほぼ1人で過ごしたが、中学生になった後、思春期のせいか、「寂しい」という感情が生まれた。他のクラスメイトにいる「仲良しの友達」が自分の周りに1人もいない事に気付いた。それまで面白かった本がいきなり面白くなくなった。周りと違うのに耐えられない自分の平凡さにがっかりした。この世の中にずっと1人でいても平気な人が多分たくさんいる。でも私は「人」について興味を持ち始めた。

そう思い始めると、私がクラスに馴染むことに注力した。毎日ニコニコして挨拶する。どんな時も絶対に笑顔を忘れない。自ら話をかけたり、クラスメイトの言うことをちゃんと覚えたりした。そうしたら、思ったよりも簡単に友達ができた。どんどんにもクラスの人気者になった。

私の周りには常に友達がいた。仲良い友達、普通の友達、そして私のことが好きな子もいたらしい。なんでそうなったのかを自分から解釈してみると、私はかなり人の感情を理解できる方だ。慰め上手で、会ったばっかりの人ともすぐ打ち解けることができる。どんな対応を取ったら向こうが喜ぶのか、あまり考えなくてもなんとなくわかる。

私はかなり器用な子かもしれない。

沢山の人と「友達」になってから、私はある事実を気付いた。ほとんどの人は自分と関係あることだけに興味を持っている。自分の話を聞いて欲しいけど、人の話を本気に聞いていないのだ。聞いて適当に返事する人がとても多い。真摯に相手の立場になって相手の気持ちを理解しようとする人がごく僅かだ。会話中に少しでも相手の適当さを気づいたら、私はもう2度とその人に自分のことを話さないのだ。

自分のことをあまり触らず、話さず、自分の思いを抑えるようにした結果、私は「自己表現」が下手だ。

ずっと聞く側、理解する側として生きてきたから、自ら何かを伝える事が滅多にない。自分自身についてもずっと不確定のまま。

鏡の中の自分を何回見ても他人を見てる気がするし、この私の価値がどこにあるのか自分の目じゃよく見えない。他人を通さないと自分を確かめる事ができないのが虚しい。

私は果たして器用なのか。

大学の時に憧れの先輩に自分の強みについて聞かれた。私は考えに考えて、「人を楽しませる事かな」と答えたが、向こうに「自分のことをもっと考えた方がよくない?」と言われた。めちゃくちゃ傷付いた。恥ずかしいけど、その通りだと思う。私はずっと自分のことから目を逸らしてる。

人に好かれるような努力ばっかりして、自分がどうしたい、自分はどんな自分が好きなのかを考えないようにしといた。人にじゃなく、自分に認めてもらう努力をした事がない。

もちろん今でも人の評価を気にしなくちゃいられないが、少しずつ自分の考えや気持ちに目を向くように頑張っている。「誰から見てもいい人」から「ちょっと身勝手な人」に変わりたい。

私は果たして器用なのかな。

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