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論考:石黒健治作品集3『不思議の国』と不可視のモデル

1.「作家」と呼びうる人たち

開始時刻に遅れて入ってきて最初に目に入ったのは、ギャラリーの入り口を入ってすぐ右側に掛かっていた、椿の花が半ば散り、地面に散乱している写真だったと記憶している。今となっては最初に見た写真が本当にそれであったのか定かではないが、少なくとも瞬間そこに目を引きつけられ、そして「死」という言葉を思い浮かべたのは間違いのない事実である。

ギャラリーでは石黒健治の挨拶が始まっていて、私は会場後方の折り畳み椅子に席を見つけ、前に座っていた知り合いに小さく声をかけた。その後、石黒によるそれぞれの写真の解説が始まって、これはどこそこで撮った写真だとか、ここは画像処理をしているといった、写真の価値とはあまり関係のない話が続いていた。

石黒によるガイドツアーが終わった後、私は自分でもう一巡り、二巡りして、気に入った写真を見直して歩いた。私は写真を見て、そこに何か意味を見出せないかと考えたのだけれど、そのような気持ちで写真を見ながらいつも感じるのは、それがいかにも不毛な作業であるということだ。

写真は単に写真なのである。写真はそこに写っているものがすべてであり、隠されているものは何もない。すべてが外に露呈している以上、写真について「語る」ことは、写真の表面を「なぞる」ことでしかなく、どこまで行っても、今見えている図像の範囲を逃れることはできない。

ある明確なメッセージやコンセプトを前提とした写真であれば、それは見る人が語るまでもなくあらかじめ言葉が用意されているわけだし、そこに言葉を追加することは、言葉の次元での戯れにはなっても、写真に深く入り込むということにはならないだろう。

また写真に関わる周辺情報、撮影場所やカメラの種類、設定、構図や露出といった技法について語ることはたやすいが、こうした写真周辺の言説を重ねることほど、写真そのものから遠ざかっていく作業はないと思う。

写真の前提や写真の周辺を言葉にするのは、難しいことではない。しかし、言葉にすることを単に写真という手品の種明かしで終わらせるのではなく、写真という魔法の秘術が明らかになるところにまで持っていくということになれば、それはとても困難な作業になるはずだ。

そして写真「作家」と呼びうるのは、言葉で向き合うことの困難な「写真」という媒体を前にして、それでもなお言葉にせざるをえない状況へと見る人を追い込んでいく。そんな作品を作り出すのが、「作家」と呼びうる人たちなのではないかと思う。

2.不可思議なショック

写真を見た時、何かを感じてしまう写真と、何も感じることのない写真とがある。それは、知っている人や場所が写っているからとか、美しいものや醜いものが写っているからとか、幸福なものや悲惨なものが写っているからといった、容易に「意味」へと還元できることが理由なのではない。

ここで言う「感じてしまう」とは、ある、不可思議なショック、説明のできない衝撃に近いものであって、例えば突然石に躓いて転んだが、その瞬間は自分に何が起こったのかわからない、そんな感覚に近い体験である。先述の「椿の写真」を目にしたときの感覚は、そんな言語化できないショックに近いものだった。

とはいえ、少し時間を置いて考えれば、こうした体験についてもさまざまな意味が見いだされてくる。「椿の花が半ば散り、地面に散乱している」というのは、今まさに散りつつある花の姿がそこに写し出されているわけで、その終末観的なビジョンが、その時の私の心にフィットしたから、と意味づけすることはかんたんである。

意味とは後からいくらでも見いだすことができるものだし、その意味を紡ぐことで「物語」を作り上げるのも容易なことだ。けれど写真を見るという行為において重要なのは、こうしたわかりやすく解釈された意味などではなく、言語化される前の、石に躓いて転んだその瞬間の経験でなければならないはずなのだ。

こうした「写真を見る」ということの始まりには、常に1枚の写真しかない。その1枚の写真は、今、私がその写真を見ている「現在」にある。写真の始まりは、撮影者がシャッターを押した「過去」であるにも関わらず、写真を見るという行為は常に「現在」からしか始まらない。

また、写真はその邦訳に反して、「真実を写した」ものとは限らない。写真は「かつてそこにあったもの」を記録したものでありながら、それが真実であることを証明する要素はどこにもない。それはただ「見たまま」のものとしてそこにあるのであって、そこに真偽の判断は存在しないのだ。

私たちが写真を見るときの「始まり」であるところの写真は、見るたびに繰り返される「現在」であり、かつまた、真偽の判断については永遠に答えを見出すことのできない「真でも偽でもないもの」である。時制がないという点で、また真偽がないという点で、写真は「終わる」ことのない光の定着物と言える。

だから「椿の写真」が私に与えたショックは、その画像が「現在」において、「真偽の区別なく」私に与えたショックなのだ。私は、写真が撮られた「過去」に、その写真の「真偽」に、そしてあとから与えられる「意味」に、ショックの原因を求めることができない。

ギャラリーでの体験からしばらく経って、私は「椿の写真」が3.11後の福島で写されたものであることを知った。しかし私の「椿の写真」を見たという体験は、こうした「過去」にも、「真偽」にも、「意味」にも還元することができない。それでもなお、その写真は「3.11後の福島」というドラマから切り離せないものとしてある。それはいったいどういうことなのか?

3.「ドラマ」の作家

石黒健治は、「ドラマ」の作家である。広島、長崎、福島、沖縄など、何がしかの出来事のあった場所を好んで選び、撮影に赴く。その場所は、ドラマ性の高い場所であるということができる。そして石黒は、写真展や写真集という形で、それらの写真を1つの流れとして「再」構成、「再」ドラマ化していく。

ここで重要なのは、石黒によって撮影され、構成されるのが「ドラマ」であるということだ。「ドラマ」という言葉には、「演劇、芝居」といった意味がある。石黒健治はドラマの作家であって、ドキュメンタリーの作家ではない。ドキュメンタリーには「真実」を写すものであるという建前があるが、ドラマにはそれがないからだ。

写真には、「真でも偽でもないもの」という本性がある。その意味で、石黒健治は写真の本質に忠実な作家であると言える。真実であるか虚偽であるかは、ドラマにおいては問題にならない。写真のドラマは「本当のこと」ではなく、「作られるもの」であり、そこに真偽の判断は無用なのだ。

しかし写真は、そこに意図されたドラマを十全に伝えることができないメディアである。それは写真が、1枚の静止した図像でしかないからだ。写真家は被写体の出来事を、物語を、歴史を、文化を、思いを、感情を、関係性を1枚の写真の中に写し込む。しかしそれをドラマとして展開するには、あまりにも情報が不足している。

3.11後の福島で写された「椿の写真」には、「震災と原発」という明確なドラマが背景にあり、石黒健治は明らかにそれを意図して撮っている。しかしそのドラマが、見る人にそのまま伝わることはない。椿の写真を見ても、鑑賞者はそれが3.11後の福島で写されたものであるということがわからない。

石黒健治が「ドラマ」の作家である、ということは、石黒が写真において困難な試みを行う作家である、ということを意味している。写真という、本性的にドラマに不向きなメディアを使って、石黒はドラマを作り続ける。それはある意味、ドン・キホーテ的な試みであると言える。

写真集「不思議の国」には長崎の爆心地を写した写真があるが、それが爆心地を写した写真であることに気がつく人はいない。中国人の大量虐殺が行われた森を写した写真があるが、誰もそれが大量虐殺があった場所だとは思わない。南京の日本軍の慰安婦施設を写した写真があるが、誰もそれがかつての慰安婦施設であることに気づかない。

石黒健治は、写真のこうした「非ドラマ性」を受け入れた上でドラマを撮影する。結果、ドラマの残滓が、残り香のように写真の上を漂うことになる。被写体がかつて持っていたドラマ性はいったん捨象され、写真という平板なイメージに置き換えられる。しかし写真の上には、ドラマの痕跡が確実に残されるのだ。

「石黒健治の写真を見る」という行為は、だから、ほのかな匂いが鼻腔に触れることに似ている。それは「嗅いだ」のではなく、「触れた」のである。「触れてしまった」と言ってもよい。能動でありながら、限りなく受動に近い体験。それは時間として一瞬であり、感触として微かであり、それでいて、決定的な体験である。

4.不穏な匂い、そして熱

写真集「不思議の国」に、こんな写真がある。2人の男性と1人の女性が、円形の、広場のような場所へ入っていこうとしている。女性は右手で前方を指さし、2人の男性は指さされた方向を見ているようだ。女性が指さす先に何があるのかはわからない。3人が向かおうとしている先に何があるのかもわからない。

広場にはこれといった特徴もない。レンガ造りの壁が、あちこち崩れかけているのが目につくくらいだ。意味するところの不明瞭な、空虚で匿名的な印象。その中で、女性が指で指し示す、フレームから外れた見ることのできない空間。巻末の撮影地リストを見ると、これが長崎の爆心地、グラウンドゼロの跡地を写した写真であることがわかる。

しかしその「わかる」は、その写真を「見る」こととはなんの関係もない。写真を「わかる」必要はどこにもない。その写真の表面に漂う、ドラマの残滓に触れられるかどうか。嗅ぎに行くのではない。そうではなしに、ふいに吹いた、風とも言い難い微かな空気の流れに乗ってきた、どこか不穏な匂いや熱を感じること。

写真集「不思議の国」に、熱気を感じる写真がある。人が写っていなくても、どこか人の汗や涙、排せつ物や騒々しいざわめき、そこでかつて演じられた感情や行為、繰り広げられた物語。それらの「熱」が残っているような写真がある。人間の醜い部分や美しい部分が、ある1枚の写真からぷんと漂ってくる。

写真集「不思議の国」に、冷気を感じる写真がある。人が写っていたとしても、人の人らしい熱や感情、意思、物語の感じられない写真。人が人である理由、人間の美しい部分も醜い部分も失われてしまったような写真がある。画面からは、無味無臭の冷え切った空気が漂ってきて、見る者の心を芯から凍えさせてしまう。

「見る」ことは「わかる」ことではない。「わかる」ことは「伝わる」ことではない。わからないが伝わること。そして、わからないが見えること。写真を見るということは、そのような行為ではないだろうか。それは能動的であるようでいて受動的であり、受動的であるようでいて能動的な行為なのだ。

石黒健治は写真集「不思議の国」の中に、さまざまな熱、および匂いを帯びさせている。それについて私たちは、方向と空間、祈りと仮面、死とエロスといったワードをヒントに、「考える」ことができるだろう。わからないが伝わること、わからないが見えることを、私たちは「考え」、「わかる」ものにしようとする。

こうした試みは、おそらく不毛なものなのだろう。けれど石黒健治は、「写真を撮る」という行為において、同じく不毛とも思われる挑戦、ドラマという試みを行っている。「写真は感性のお化けだ」と石黒は言う。そんな感性のお化けに対して、言葉を探し、思考してみること。それは、石黒健治に対する見る側からの返礼となる。

大和田洋平(編集者/評論家/LITTLE MAN BOOKS)

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石黒健治作品集 3 不思議の国 FAIRYLAND

B5横変/102ページ/並製
定価3,200円+税
ISBN978-4-7791-2190-6 C0072
https://www.amazon.co.jp/dp/4779121906

〇プロフィール
石黒健治 kenji ishiguro
1935年福井県生まれ。1959年桑沢デザイン研究所修了。同年、写真協会新人奨励賞受賞。主な写真展に「不幸な若者たち」「ナチュラル」「シアター」「夫婦の肖像」など。写真集は「健さん」「広島HIROSHIMA NOW」「ナチュラル」など。そのほか、ミステリードキュメント「サキエル氏のパスポート」を出版。また、映画「人間蒸発」(今村昌平監督)の撮影担当、「無力の王」(東映セントラル)を監督など、多方面で活躍。


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