ユビキタスな「信仰」社会(3)−信仰心の揺らぐとき、そして「ほどほどに信じてみること」−
今回議題として挙げたいのは「信仰心を試されるとき、人はどんなことを感じるのだろうか」という点です。
僕はTwitterをやっているのですが、大学3年生くらいの頃から、社会学者の古市憲寿さんをフォローしています。
その頃の僕はTBSラジオで隔月最終日曜(実際に聞いていたころはまだ毎月でした)の深夜にやっている「文化系トークラジオLife」というを聞きまくっていました。
そこに、「新進気鋭の若手社会学者」と評されて登場した古市さん。はじめは不思議な雰囲気のある人だな…と訝しみつつも、話を何度も聞くうちに、いつの間にか彼の思想に惹かれていったのです*1。
そんなある日、古市さんがTwitter上でとある人から非難を浴びているのを知りました。
今でこそ炎上が常態化している古市さんですが、その頃はまだ炎上したてくらいだったはずです。
その光景を見たとき僕が感じたのは、何とも言えない苦々しさでした。
というのも、どうやら問題の原因は古市さんの発言にあったように見受けられたからなのです。
ここで、教祖のフォロワー(≒信者という意味で)がとる行動にはいくつかの選択肢があります。
ひとつは、ただ愚直に教祖の正当性を主張すること。自分のTLに空リプで批判元を非難する内容を書いたり、リプを直接送り付けたりします。
もうひとつは信仰を止めること。教祖に失望し、信者であることを止め、フォローを外します。
僕の場合はそれらとはまた別で、フォローは外さなかったものの、古市さんに対するある種信仰的感情は、すーっと消えてしまいました。
ここで思い出されるのが、いつかのテレビ東京「カンブリア宮殿」で、日本マクドナルド元CEO 原田泳幸氏が発言していた「スティーブジョブズの考えやアイデアが好きと言う人はいるけれど、スティーブジョブズ(自身)を好きという人はいないでしょう?」という言葉なのです(正確ではないかもしれません、すみません)。
人は得てして、その人の発言や行動がその人自身の全てを表していると勘違いしがちです。ですが、心理学の世界では、人の行動はその環境によって大きく左右されるということがすでに実証されています。
その人の考えがその人の全てではない。僕らが誰かの発言に感銘を受けたとき、その人の考えに共感したのであって、
その人「自身」に共感したわけではないのです。
そう考えると、誰かを教祖として信仰しようとすることから少し距離を置けるような気がしてきませんか?
今回でこの「ユビキタスな「信仰」社会」の連載は完結なのですが、この一連の文章を書こうと思った最初の動機付けは、「信仰」が人々の生活のあらゆるところに入り込んでいるこの現代において、「信仰」から一旦降りてみないか、というところにありました。
(2)でも述べましたが、「信じる」ことを全くしないというのは不可能です。人は誰もが誰かや何かを信じながら生きています。でも、あまりにも信じすぎている気がします。期待が高すぎるのです。そして、その信じた対象が自分の意図とは違う行動をとったとき、人は「裏切られた」と解釈し、一気に落胆します*2。
絶対の神様はいません。気象予報士も予報は外すし、アップルも時折意味わかんない商品を出します。菜食主義が実は健康を阻害する可能性もあるのかもしれませんし、部下は頻繁にミスします。
ほどほどに信じましょう。信じたとおりに行かなくても、あなたが「裏切られた」のではなく、ただ広い世の中でそういうこともあるんだな、くらい思っているほうが生きやすい気がします。
*1:特にお気に入りなのが、「手の届く範囲の人るが幸せならそれでいい。それが多心円的に広がっていけば、やがてはみんながハッピーになる」といった趣旨のもの。今でもふと思い出して考えることがあります。
*2:この心性って、すごく自己愛性人格障害っぽいです(詳しくはDSM-5などをご参照ください)。ユビキタスな「自己愛」社会でまたネタができそう?でもまじめな話、「自己愛」のはびこり方も半端じゃないですからね。
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