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ユビキタスな「信仰」社会(2)−始まりはいつも「信じる」ことから−

(前章「ユビキタスな「信仰」社会(1)」はコチラ)

前回は、「信じる」ことはつまり「手放す」ことであると言えるのではないか、という話をしてきました。

この話は、パソコンの「メモリ」に例えるととても分かりやすいです。
パソコンにおけるメモリの大きさは、よく「作業台の広さ」と表現されます。
どんな方でも経験したことがあると思うのですが、一度にたくさんのアプリケーションやプログラムを開いたり同時並行で動かそうとすると、パソコンの動きが遅くなりますよね。
あれはつまり、作業台の上がいっぱいになってしまい、作業の手が滞ってしまった状態なのです。

パソコン上でこの問題を解決する場合、「メモリを増設する」、いわば作業台を広げることが選択肢の一つなのですが、僕らがそれを行うのには少し無理がありますよね。
もう一つの選択肢として、一度に起動するアプリケーションの量を抑える、ということが考えられます。僕らで言えば、自分のメモリに余白を作り出すために、誰かに一部のタスクを任せよう、ということ。 こうすれば、(うまくいけば、)作業効率を落とさずにより多くのタスクをこなすことができるのです。

ここまでは、「信じる」という行為における、「タスクの外注」という面を主に述べてきました。
ここからは、「信じる」という行為のもう一つの側面について考えてみたいと思います。

ここ最近(なのか昔からなのか)、「仕事術」がブームです。SNSのタイムラインで見ない日はほぼないと言っていいでしょう。
「朝活」「夕活」「ライフハック」「社会人勉強会」「タスク管理を効率化するアプリ」「仕事ができる人のメモの取り方」「モチベーションアップのための食事、その摂り方」etc...タイトルを見ているだけで圧倒されます。
ところで、それらの「仕事術」って、結局何かの成果を生み出しているのでしょうか。

例えば、僕は通常始業時間の約30分前には出社しています。
これも広義の仕事術になるかと思うのですが、それはただ単に「メールなど先に処理して、始業時間から取り組みたい仕事に打ち込めるから」、ひいては「早めに帰れるから」と思っているからです。急な案件などが発生しない限り、「早めに始めれば早めに終わる」というのは自明な原理ですよね。
一方、先にあげたような様々な「仕事術」を使っている人たちは、実際に仕事が効率化でき成果を上げるようになり昇進・昇格したのでしょうか?

ここで言いたいのは、それら「仕事術」を行っている人たちは、「その"仕事術"をすることで仕事ができるようになる」と「信じて」いるからそれを実践している、ということなのです。
そりゃそうだろ、と思われる方もいるかもしれませんが、このことは「仕事術」だけではなく、僕たちが日常生活で行う様々な行為と関連しています。
これが「信じる」という行為のもう一つの側面です。僕たちは、「信じて」いるから、その行動をとるのです*1。
ある宗教の敬虔な信者であれば、「神様」やそれに類するものの存在を常日頃から自分の近くに感じていて、それらの教えに基づいた行動をごく自然にとります*2。

このメカニズムは、人間が生きていくうえで必要不可欠なのかもしれません。もし「信じる」ことを全て止めてしまったとしたら、僕たちはあらゆる行動がとれなくなってしまうでしょう。
例えば何かを決断する際には、数値や具体的事実などの客観的な基準があったとしても、それを基準として採択する自分を「信じる」ことができなくなり、結果として決断ができません。
逆に言えば、客観的な基準に基づく判断をしている人というのは、「客観的基準に基づく判断が正しい」と「信じて」いるのです*3。

*1:なお、「生理的欲求に基づく行動」は除く。最初、食事に関して「その食品が栄養を含んでいるものと"信じて"いるから…とか考えたのですが、多分最悪に追い詰められた状態では、食べ物でなくても食べてしまうのでしょうね。

*2:キリスト教の食事前の「アーメン」や、"God bless you(神のご加護を)"といった言葉などは、教えが生活の中に入り込んでいる一つの表れと言えます。ちなみに日本における合掌からの「いただきます」「ごちそうさま」は、仏教信仰の度合いと反比例しているといえるほど日常的によく使われますが、「年上を敬う」「頭を下げる」など、実は仏教由来(正確には儒教などもなのでしょうが)の行動は至るところにあるわけで、それらの行動から「神様」の存在だけがすっぽりと抜け落ちてしまっているという、他から比較すると不可思議な状態にあるのですね…
さらに蛇足ですが、僕個人がが小さい頃に理解していた「いただきます」「ごちそうさま」の意味は「生産者への感謝」「調理者への労い」「食べるものの命への弔い」あたりでした。3番目に関しては、日本古来の八百万的、物神信仰的な感じもしますね。

*3:「信念」という言葉がここの辺りとかかわってくるかもしれませんね。
それとは別に小噺を一つ。心理学の世界には、実験や統計などの客観的指標によって、人の心の仕組みを解明しようとする領域があります。僕は大学院で心理学を学んでいたのですが、僕がそういった領域こそが正しいと発言したところ、とある教授から「それは"数字が正しいと思っている派"だよね」と言われたことに衝撃を受けました。また、同じ教授が担当していた心理療法の技法に関する授業にて、僕が「折衷(様々な学派における理論・技術を組み合わせること)をしている心理臨床家・カウンセラー」について言及したところ、授業を担当していた教授から「それは"自分派"という一つの学派・理論だ」と言われたことも頭に残っています。

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