「共震」の時代-1
○○の~~な姿が、多くの人々の共感を呼んだ
こんな言葉、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
いつの頃からか、世の中における物事の価値は「共感している人の多さ」で示されるようになりました。
テレビや映画では冒頭のような売り文句を掲げますし、その他イベントや物品といったコンテンツでも「SNS上でどれだけいいね・シェアされたか」が評価の一部となっています。
たしかにマーケット(物の売買)に関わることは、「どれだけ売れたか」に最も価値が置かれるため、そのような評価基準になることも頷けます。
ただ同時に、実際に購入する一消費者側としても「多くの人がその物を消費しているからきっと良いものに違いない」という判断で購入することがある。それもまた事実なのではないでしょうか。
ここで突然ですが、「共感を軸に人間の価値を測る」という思考実験をしてみたいと思います。
ここまでの話に基づくと、価値のある人間とは「多くの共感を得ることができる人間」であり、「共感を得られない人間」は価値が低いことになります。
それでは、「多くの共感を得る人」とはどんな人でしょうか?「人は他人の中に自分と似ている要素があることを認識すればするほど共感する」と仮定すると、多くの共感を得る人とは「多くの人と共通点をもつ人」であるといえるかもしれません。もっと平易な表現を用いれば、「周りと同じ人」は価値が高い、ということになります。
それでは、自分の価値を高めるため(下げないため)には/自分の価値が高いことをアピールするためには、どうすればよいのでしょうか?
答えは「自分が周りの人と同じである」ということを周囲に示す、ということになります。
実は、現在世の中で行われている「自分はこれに共感しています」という表明の多くが、このロジックに当てはまるのではないかと私は考えています。共感しているということは、「私はあなたと同じように感じているよ」ということの表明に繋がるからです。
更に言ってしまえば、多くの人々はこのロジックを意識せずに「共感表明=自己価値アピール」行動を行っているようにも感じます。
何かあればとりあえず共感。むしろ、自分の価値を下げないために無意識的・自動的に共感してしまう(させられてしまう)。
それはいわば、「共感」ではなく「共震」とでもいえる状態なのではないでしょうか。
「共震」の時代に入った現代社会では、様々な事柄が個(person)から集団(people)へと強制的/暴力的に移行を余儀なくされています。実際にどのようなことが起こっているのか、具体例を基に考えていきたいと思います。
(「共震」の時代-2へ続く)
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