書評「今日もあの子がここにいない」
「提言 すべての人に無償の普遍教育を 多様な市民の教育システムへの包摂に向けて」では、不登校の子ども、外国籍の子ども、障害のある子ども、貧困家庭のある子ども、被差別部落の子ども、周辺化される目立たない子どもが「しんどい子ども」として定義されている。
しかし、筆者にとっては「被差別部落の子ども」は過去の問題であるとイメージしていたため、現代の提言の中で「しんどい子ども」として「被差別部落の子ども」が位置づけられていることに違和感を持っていた。
過去に「被差別部落の子ども」がどのような困難を抱えていたのだろうか?どのような歴史があったのだろうか?今どのような問題が残っているのだろうか?
今回は上原善広(2018)『今日もあの子が机にいない 同和教育と解放教育』(河出書房)を読んでなるほどと思ったこと、考えたことをまとめる。
本書は、部落出身当事者である筆者が自身の経験を振り返りながら書いた本である。筆者は喧嘩ばかりの両親のもとに生まれ、中学生まで「ヤクザ」のように暮らしていたが、ある教師との出会いをきっかけに更生し、大学進学まで果たしている。
被差別部落の歴史
江戸時代以上に明治・大正で被差別部落は没落していった。それは被差別部落の人々が特権的に持っていた交番的な役割を「四民平等」によって失うことになったから。
そして被差別部落は「路地」「ムラ」とも呼ばれる。筆者は「更池」という路地に住んでいた。
1970年代は路地ではバラック小屋が多く、不衛生でスラム化しており、一部のボスをのぞいてみな貧しく字の読めない者も多かったので極道になる者も少なくなかった。路地出身者は肉を扱う仕事か極道になるしか道がなかった。「勉強しいや。勉強したらずっとイスに座ってられる仕事につけんで」と母親に言われていた。
また、松原パークレーン事件(大阪で起こった強盗事件で、路地の青年が捕まった)や、狭山事件(埼玉県狭山市で起こった女子高生誘拐殺人事件で路地の青年が捕まったが、冤罪の疑いが強く、筆者は毎年決まった日に「狭山差別裁判凶弾」と書かれたゼッケンを着て学校に通っていた)など、被差別部落出身者が冤罪として捕まることも多く起きていた。
そんなとき同和対策事業特別措置法ができる(1969年)。国が路地に対して住環境や教育などの環境改善を定め、予算をつけた時限立法であった。
路地は人同士のつながりがとても強く「子供会」もつくられていたが、今はつながりを持ちにくい現状にある。
現在も残っている差別は「結婚差別」である。引っ越しを行うときや、結婚するときに、その場所が部落であるかどうか調べる行為が今も行われている。また、今は部落の地域の土地の値段が安いこともあり、在日外国人やシングルマザー家庭が流入してきている。
どのような「同和教育」「解放教育」があったのか
当時は大阪の解放教育をめぐって教師間でさまざまないさかいや人事権の駆け引き、蹴落とし合いといった背景があった。(同和地区について学ぶ「同和教育」か、さらに強い解放を求める「解放教育」かによって、政治的な争いがあった)
解放教育とは、生徒が自身の出自や生活をかえりみ、他の生徒の家庭環境や思いに気付かせることで、生徒同士のきずなを深める「仲間づくり」を行い、非行問題への対処や学力保障へつなげていく教育である。
当時(1970年代?)は、「部落民宣言」「立場宣言」といって、自らの出自を教室または全校生徒の前で表明する教育実践があった。父子家庭・母子家庭・在日朝鮮人もおこない、自らの出自を話すことでクラスが一つに団結する効果があり、社会に出ても堂々と自らの出自を表明し誇りをもって生きてほしいという意味も含まれていた。
筆者は「部落の子だけがなぜ余所の子よりも乱暴な子が多いのか、それは差別の結果だということを、わかりやすく教えてくれたのが解放運動でした」と述べている。
筆者の担任だったM教諭は部落当事者である筆者が中学2年生の時、自主学習ノートで自分のことを書く取り組みをさせていた。そのことはカウンセリング効果と、部落出身であるというネガティブなことをポジティブにしていく効果があったそうだ。
大阪の解放教育において生徒は教師のことを「先生」と呼ばず、「さん付け」で呼ぶ。一切の格差や差別を無くすためである。また、格差への「同情」では逆に差別を助長させているという考え方も強かった。
さらに、地元高校集中受験運動といって地元の高校一校だけを、成績が優秀な生徒もそうでない生徒も集中して受験することで高校間の格差をなくそうという教育運動も筆者の住む地域では起きていた。(→学校選択制が進む現代とは逆)
当時は解放同盟が教育現場に介入(教師への指導など)を行っていた。それは「差別を受けているしんどい子を中心とした、差別をなくす教育」で、地元の路地に住む親子の事情をよくする解放同盟の助言を聞いたほうがよいと考えられていたからである。
当時の大阪では「同和担当教諭」にならなければ校長になれないと言われており、また、「同和教育をする実習生を無条件で採用」とされており、当時の人事権に大きな影響を与えており、反発された。
考えたこと
日本における部落差別は、アメリカにおける黒人差別に近いと思った。アメリカでは黒人は肌の色だけでなく、暴力的なイメージがあることや、白人より成績が悪いことを理由として差別を受けている。しかしそれは黒人の生まれ持った能力よりも、生まれ育った環境によるものが多い。本のなかでは部落出身者が育つ過程で暴力的になってしまう、学校に行けなくなる状況が描かれていた。
「自分が今困難な状況にあることを自覚し、同じように困っている人同士で連帯すること」が「解放教育」の根幹である。「解放教育」は被差別部落の子どもだけでなく、在日朝鮮人の子どもや、母子家庭、父子家庭、貧困家庭の子どもも射程に入れた教育であった。
もともと筆者は「提言 すべての人に無償の普遍教育を 多様な市民の教育システムへの包摂に向けて」において「被差別部落の子ども」は周縁的な位置にあると思っていたがむしろ中心に置かれるべきものであると思うようになった。被差別部落の子どもを中心とした「解放教育」を現代に合わせた形で復活できないだろうか。
一番の困難は、現状を把握することである。2002年を最後に、被差別部落の子どもだけを対象とした調査は差別を助長するとして行われなくなった。当事者を取り出した教育も、「立場宣言」も、当事者が嫌がることが推察される。
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