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第二言語で理解するということ

Little Cloudsのクラスでゲーム作りをしました。

写真は小学低学年のクラス。
すごくないですか?
だって
何をするのか
どうやって作るのか
そんな講師の英語を聞き取って理解し

では自分はどんなゲームを作りたいのか
それには何が必要なのか
何を手伝ってほしいのか
それらをみんな英語でこなすことができたのですから

もちろんゲームを作るのに
XXが必要なんだけど英語でなんて言うのかなあ
そんなことがあったかもしれません

でもクラスでは一切の日本語が禁止ですから

XXXって英語でなんて言うの?

なんて聞くこともできません
でも
講師が例えばある男の子の様子を見て
What do you want?
そんな風に聞いて男の子が答えに詰まっていたら
切る真似をして
Do you need Seiccors?
と聞いてくれるでしょう。あるいは書く真似をして
pencile?
消す真似をして
eraser?
そして消しゴムが必要だったらここでうなずけるかもしれません。

その時の頭の中は?

消しゴムってイレイサーって言うんだと考えて
消しゴムの画像→消しゴム=eraser
英語のまま理解するとはこの日本語の”消しゴム”という部分を飛び越えるということ。

でもそれだと理解をしていないように受け取られるのかしら?

消しゴムって英語でなんて言うの?
そう聞かれてもまだeraserと答えられないかもしれません。
なんだ、わかっていないじゃない。
でもそうかしら?
誰かが講師に
Eraser pleaseと言っているのを聞くと
頭の中にはすでにeraserの画像が浮かんでいるかもしれません。
そしてクラスで何回もeraserを聞いていると自分から
Eraser pleaseと言えるようになるでしょう。

あるいはそのころにはWhat do you need?
の理解ができているかもしれません。

英語を訳して日本語で理解する方がすっきりするんです。
細かいこともクリアに分かります。
でもそれって第二言語習得になってないかな?

理解する=日本語で
そんな風に母語に執着していると第二言語習得は進まない、そう思っています。

自分自身の経験でも日本語で理解することを手放したとたん英語の習得が進んだように思うのです。

第二言語習得について学んでいた時、こんなことを教わりました。
第二言語は母語でもなく、その言語が母語の私たちが呼ぶところのネィティブの人が話す完璧な言語でもない(なりえない)。そのどちらでもない領域で第二言語を個人個人がそれぞれに習得していく。

子供たちには是非この母語ではない頭の領域を使う練習をして英語を習得して行ってほしいと思うのです。

面白いのは第三言語を学び始めると、かつて第二言語を学んでいた時つい母語が出てくるのと同じように、今度は母語より第二言語がつい頭に浮かぶ。
これは第二言語と第三言語を扱う脳の領域が同じだからだとか。

第二言語は決して母語にはなりえない。
言語習得の不思議です。

私もまだまだ習得中
第二言語の習得は終わりのない旅
ずっと続くけれれど
色々な発見と巡り合える



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