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#40 平等を目指しながら、どうして平らに並ばんのだ。

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

平等主義は、因襲的不平等・独断的特権・歴史的不正を除去したのち、次には、功績・能カ・徳性の不平等に対して謀反を起こした。平等主義は、愛に見せかけようとしている憎しみである。
アンリ・フレデリック・アミエル 「日記-1864」

もう今この瞬間にも、不平等は存在している。

私は文章を書く側の人間だし、あなたは読む側の人間だ。書くのにも読むのにも労力は必要だが、よっぽど酷い文章でない限りは、書く方の苦労の方が多い。

書く側は、何らかの主張を抱き、それを伝えたいと思う事からはじまり、文章の構成を考えて、オチへの道筋を探りながらそこへとたどり着く筋道をつけていく。

一方で読み手側の人は、誰かがが作ったその道を歩いていくか、途中でやめるかを選ぶことが出来る。だからここで読むのを辞めても、それはあなたの自由である。

私が必要もないのに苦労して作った文章を、あなたは読んでもいいし、読まなくてもいい。それは、選択権という平等な権利だ。

え?その選択権は平等じゃないかって?

筆者である私にはその権利は適応されないていない。

私はどうしたってこの文章を読まなくてはならない。なぜなら、この文章を書くと決めたためである。世界中の誰もこの文章を絶対に読まなくてもいいのだが、私だけは絶対に読まなくてはならない。

つまり、この文章を書かなくても良いあなたと、書かなくてはいけない私は全く平等ではない。

ちなみに私は自分の読みたい文章を書いているつもりだ。私が読みたい文章を書いている人がいないからだ。だからもう不平等でしょ?ね?もっと書いてよ。そして教えてよ。

とにかく、平等という言葉の裏には例外があり、たとえ社会福祉的なシステムが全ての平等を目指していても、必ずどこかにしわ寄せが発生している。

例えば年金は、一生懸命働いてきた人たちの為の平等なシステムであるが、受給しないであろう若い世代には不平等なシステムに思えるかもしれない。減り続ける若い世代が、大量の年金世代を抱えているという構図は、双方が納得いくシステムにはなっていない事は確かだろう。

平等と言いながら、それは不平等によって成り立っているのである。

そういう状態なのだから、宇宙人たちがこう思うのも無理はない。

是非、見ていただきたい。

中央公論社『藤子・F・不二雄 SF短編PERFECT版』第6巻収録「征地球論」からの1コマ

新たに侵略する星の候補となった「地球」をめぐって議論が分かれている。地球人は今すぐ滅ぼすべき危険な種族なのか、それとも放置すべきなのか。議論は満場一致の同意を得て決断をするには至らなかった。そのためランダムに抽出したサンプルである地球人の男の子の行動を見て、その答えを見出そうとした時の1コマである。

この言葉は平等を謳いながら、そうではない状況にいる我々と社会に向けられている。

ちょっと考えてみて欲しい。世の中は平等や公正、公平さを謳いまくっている。そしてそれでいて自由であると。しかし実際には、不平等・不公正・不公平、そして不自由なのが世の中である。

仮に、あなたが誰かまたは何かから平等に扱われており、安心しているとする。しかしそれを不平等であると感じている人がいるかもしれないのである。また、あなたを平等に扱う人はそのために残業しているかもしれないのだ。

要するに他者を平等に扱うために、誰かが不平等になっている可能性があるのだ。このように平等な社会は、不平等によって成り立っている側面がある。

なんだか最近、それに気が付いていない人がとても多いような気がする。

平等の為に不平等な扱いを受けている人たちがいて、その人たちにきっと感謝すべきではあるのだろうけれど、今回はそれを言いたいのではない。

誰もが平等を理想としている。

社会とは平等を目指す人たちの集まりとも言える。

しかし、社会の現実はそこから遥か遠くのところで成り立っている。考えられるだけの不平等がそこらにある。右を向けば、そこは不平等。左を向けば、そこにも不平等。自分を見れば、不平等なのである。

歴史から見てもこの問題は永遠に繰り返されており、実は一向に改善の光を見せていない。いつだって革命や戦争は、不平等の先に起きる。格差はいたずらに大きくなっている。

先に、平等を理想としている。と述べた。平等とは理想であり、社会として理想的なのは平等な状態である。という事になる。

この”理想的なのは”について考えてみる。

人がこの言葉を形容詞として使う時、ここには「今これは実際にはそうではないけれど、本来望ましいのは」という意味が含まれる。または「正論をいうのであれば」という言葉にも置き換えられる。

つまり、物事の在り方として平等であることは望ましいし、理想的なのであるが、それは現実的ではない。と言っているような物である。

なぜそうなのかについては、世間が差別的な発言にとてつもなく敏感である事からもわかるだろう。とはいえ、私は差別は世の中にあってしかるべきものであると言いたい訳では無い。

差別に対してたくさんの活動をする人たちがいる。彼らの行動を卑下する事もなければ、現実的では無いのだから辞めろというつもりもない。活動の動機はあらゆる差別を否定し、平等を目指すとするのであればそれは崇高な物であると考えている。

但し、物事は多面的に捉える必要がある。

平等を目指す活動が、他者への攻撃へと転嫁しているように見えた時(もちろんそれは先に攻撃されたと感じているからなのかもしれないが)、権利や人権を守るためという名目で誰かを攻撃してもいいのであれば、攻撃された側(または攻撃されたと感じている側)は、それを正当であると感じるだろうか。

そしてそうやって勝ち取った物を、心から平等であるといえるのか。

同義語としてはこんな言葉がある。

平和のために、戦争をしてもいいのだろうか。

命を守るために、殺人をしてもいいのだろうか。

この辺を踏まえると、このようになる。

平等の為に、不平等を生み出していいのだろうか。

だから考える。

平等という理想は、追い求める事は人類に必要でも、本当にそうなるという事はほぼ考えられない概念なのではないか。という事である。

私は諦めているのではない。また、あなたに諦めろと言っている訳でもない。

今のままでは、難しいのではないだろうか。と言いたいのである。

「問題はシステムで解決する」という言葉がある。

問題は何か一つの解決策を提示するだけではなく、様々な角度からその問題点を包括した仕組みとして解決する方が結果的に良いという意味だ。

そしてこのシステムは現代社会で言えば、政策や法律という事になる。この政策や法律を変えるという活動は、社会の根幹から変えるという事でもある。もちろん、革命を起こせなどと過激な事をと言いたい訳ではない。

本当に変えたいのであれば、市民レベルの活動をするのではなく政治的な活動が必要なのではないだろうか。平等を訴えるのであれば、政治でやるべきじゃないだろうか。だが、間違いなくそこにも不平等はあるだろう。でもそこで戦う以外に、今のシステムでは選択肢はない。

混乱の先導者は「市民の声をあげろ」と言う。確かにその通りではあるが、そのやり方まで指示している事が多い。政府機関の周りを練り歩いたり、バリケードを壊して議会に突入したりする。

そこまで過激でなくても、対象を攻撃する事を指示されれば、親の仇の様に攻撃できる人たちがいる。いわゆる口撃というやつだ。ネット上でもよく見る。

そういう物を見た時の感想としては、こうである。

彼らが一体、何をやっているのか全く分からない。誰かの指示で行動している時点で、そこには格差があるのだから、すでに平等ではない。

平等を目指した崇高な活動だったはずなのに、自分の権利や立場を守るものだったはずなのに、はっきり言って意味不明である。

ここで、コマのセリフを見てもらいたい。

「どうして平らに並ばんのだ」

この征地球論では、このコマの後、地球人が平等を目指すといいながら、人は人の上に人を置き、気が付けばそれはピラミッド状になっている。という事を実にわかりやすい図形で示している。この図形の為だけにでも是非、手に取って見てもらいたい。

それは平等を目指しながらも、支配する者と支配される者に分かれる人の本質なのかもしれない。そして、もしこれが本当に人の本質なのだとしたら、そもそも平等などあり得ないという事になる。

下手すると、うっかり絶望してしまいそうだ。

だからF先生の視点には、驚かされる。

地球人を滅ぼすかどうかを検討している宇宙人たちの方が、私たちよりも人類の本質を突いている。

私がここで人類の本質について語っても、誰も賛同しないだろう。しかし、これを地球を滅ぼす宇宙人の視点から見た地球人として見せられると、そのメッセージは異様なほどに伝わってくる。

デモなどのように、言いたいことを言いたいように一方的に傍若無人に言っても、社会には伝わらないのかもしれない。

ちなみに、このデモという表現は時代背景もあるのだろうが、手塚先生の漫画には良く出てくる。そして、先導する人と盲目的にそれに従う無知蒙昧な人々も描かれている。手塚先生がこの活動をどのように見ていたかよくわかる。

主張を誰もが受け入れやすい形でそれを訴える事。そこには納得感の為に、知性や客観性が必要だ。そしてあたかも平等がそこにあるかのように見せる必要がある。暴力や口撃では無いのだ。

だから加工、編集する事でより伝わる形にするという技術が必要だったりする。それはプロパガンダかもしれないし、宗教が使うような経典的な物かもしれない。

そしてそれが上手くできるとその人は先導者となる。そして平等を謳いながら、人々を巻き込んで革命や戦争へと導いてきた。今の時代で言えば、その一歩手前の分断を狙っている人たちが多いと言える。

平等を目指した活動が、この分断を狙った人たちと結びついた時、それは崇高な動機ではなく、何者かの別の思惑が含まれることになってしまう。いたずらに陰謀論を唱えるつもりはない。しかし、歴史的に見てもこれも一つの側面である。

より簡単に言うと、平らに並ぶと今の社会は成り立たないのだ。

それに気が付かないと、永遠に埋まらないギャップに苦しむことになるのではないだろうか。

宇宙人たちは、1,000年の猶予を地球人に与えた。結論を保留してくれたのだ。その決め手は、愛と涙だった。他人を思いやる気持ちと、喜びを分かち合う感情だ。

ここまでずっと、平等などあり得ないという事を主張してきた。

平等ではないからこそ、必要なのは他人を思いやる気持ちと、喜びを分かち合う感情なのだと思う。

ただ、こんなキレイごとなど言いたくはない。だから、敢えて言う。きっとF先生の言いたいこともこうなのかもしれないからだ。

そうであっても、与えられるのはいくばくかの猶予でしかない。

人の在り方についての結論はまだ無いのだ。

人が年月ととともにより良く発展していけるとしたら、いつかその答えが出るのかもしれない。

私はただ、それが1,000年の猶予期間内であることを祈るだけだ。

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