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memo ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』下巻

【人類の統一】

第12章 宗教という超人間的秩序

宗教は、貨幣、帝国と並んで人類を統一する要素。宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。

古代の宗教の大半は局地的で排他的。普遍的で宣教を行う宗教が現れたのは紀元前1000年紀。

局地的な宗教は、特定の場所や気候、現象の独特の特徴を強調する傾向がある。農業革命に宗教革命が伴った。狩猟採集民は動植物をホモ・サピエンスと対等の地位にあるとみなしていたが、農耕民は動植物を「所有」して操作する対象とみなす。しかし、繁殖などを完全にコントロールすることはできない→古代の神話の多くは、法的な契約。羊を生贄にし、葡萄酒とパンを捧げるのと引き換えに、神々は豊作と家畜の多産を約束する。

農業革命後、土地の精霊などを信じるアミニズムから多神教へ。豊穣の女神や雨の神、軍神などによって支配されていると考えるようになった。アニミズムも完全に消えたわけではなく、庶民は土地の精霊に病からの回復を祈ったりした。

アニミズムはホモ・サピエンスを世界に暮らしている多くの生き物のうちの一つに過ぎないと考えたが、多神教信者は世界を神々と人々の関係の反映と見るようになる。→洪水が起きたのは数人の人間の愚行のせい、など。

多神教やアニミズムはかならずしも単一の神的存在や法に異議を唱えているわけではなく、様々な神の背後にある、至高の神的存在を認めている場合が多い。

多神教の根本的洞察は、世界を支配する至高の神的存在は関心や偏見を欠いており、人間のありきたりの欲望や不安や心配には無頓着であるというもの。この神的存在に、戦争での勝利や健康、雨を願っても意味がない。だから古代ギリシア人に運命の神に生贄を捧げたりしないし、ヒンドゥー教徒はアートマンのために神殿を建てたりしなかった。→限られた力を持つ神々がつくられ、多神教になる。

やがて多神教の信者の一部は、自分の守護神を気に入り唯一の神だと信じ始める。→一神教の誕生。(局地的一神教の段階)

多神教は一神教だけではなく、二元論の宗教も生んだ。二元論は、悪は独立した力であり、善き神に創造されたものでも従属するものでもないと考える、二元論では、宇宙はこれら二つの力の戦場で、世界で起こることはその争いの一部だと説明される。→悪の問題をすっきり説明できる。一神教は、全知全能の神が統べる世界で、なぜ善人に悪いことが起きるのか、説明するのに苦労する。

二元論の弱点は、「秩序の問題」。もし世界が単一の神に作られたのなら、世界に秩序があり、万物が同じ諸法則に従うことも説明がつくが、善と悪が支配権をめぐって争っているのなら、宇宙を支配する諸法則は誰が定めているのか?

→一神教は秩序を説明できるが、悪を説明できない。二元論は悪を説明できるが、秩序を説明できない。

論理的には一神教信者はそのような二元論の信念を信奉できないが、人間には矛盾しているものを同時に信じる能力がある。そのため、全知全能の神を信じるキリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒がそれとは独立した悪魔の存在を信じることもある。善き神が悪魔との戦いで私たちの助けを必要としている→聖戦の呼びかけ

天国(善き神の領域)と地獄(悪しき神の領域)の信仰も、二元論に端を発する。(そのような信仰は、旧約聖書には見られない。そもそも、人間の魂が肉体の死後も生き続けるという主張はない)

一神教は、歴史的な経緯の上で見るとその傘下に二元論や多神教やアニミズムが入り乱れている。平均的なキリスト教徒は、一神教の絶対神を信じているが、同時に二元論的な悪魔、多神論的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。

自然法則の宗教

インドのジャイナ教や仏教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義、エピクロス主義は、神への無関心を特徴としている。神々は生態系の中にニッチを持っているが、自然の法則を変えることはできないと考えられている。

仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタ。人間は痛みがあればそれが不満でその解消を望み、快さを経験した時もそれが消えないかと不安になったり、快さが増すことを望んだりする。→「私は何を経験していたいか」ではなく「私は今何を経験しているのか」に注意を向ける。完全な満足と平安の状態「涅槃(ねはん)」(「消火」の意)。

ゴータマは涅槃の境地に達し、「悟りを開いた人」を意味する「仏陀」と呼ばれるようになる。

一神教の第一原理「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」

仏教の第一原理「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」

仏教は神々の存在を否定しないが、人間の、苦しみは割愛から生まれるという法則に対しては何の影響力も持たないと考える。

だが仏教徒の99%は涅槃の境地には到達せず、現世の生活を平凡な目標の達成に捧げるため、インドではヒンドゥー教の神々、チベットではボン教の神々、日本では神道の神々というように多様な神を崇拝し続けた。

時が経つにつれ、いくつかの仏教の宗派から仏や菩薩が生まれる。→俗世の問題処理も祈るようになる。

過去300年は、宗教が次第に重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれる。有神論の宗教については正しいが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。自由主義、共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった自然法則の宗教→これらは自らをイデオロギーと称するが、ただの言葉の綾にすぎない。

神々を軽視する仏教も宗教として扱われる。シッダールタが自然の普遍の法則を発見したと信じているように、ソ連の共産主義はマルクスやエンゲルスが発見したと信じていた。『資本論』のような経典もある。マルクス理論に精通した神学者、従軍牧師がいたし、共産主義にも殉教者や聖戦、トロツキズムのような異端説もあった。

このような論法が不快ならイデオロギーと呼び続けても構わない。私たちの信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという神不在のイデオロギーに区分することができる。しかしそうすると、仏教や道教を宗教ではなくイデオロギーに分類することになる。

近代の信念は混合主義。今日の典型的なアメリカ人は国民主義者(歴史の中で果たすべき役割を持ったアメリカ国民の存在を信じている)であると同時に自由至上主義の資本主義者(自由競争と私利の追求こそが、繁栄する社会を築く最善の方法だと信じている)であり、さらに自由主義の人間至上主義者(人間は奪うことのできない特定の権利を創造主から授けられたと信じている)である。

有神論宗教は、神の崇拝に焦点を絞る。人間至上主義の宗教は、ホモ・サピエンスを崇拝する。ホモ・サピエンスは独特で神聖な性質を持っており、その性質は他のあらゆる生物や現象と根本的に違う、というのが人間至上主義の信念。

自由主義的な人間至上主義→個を重んじる、一神教的な基盤

「人間性」は個人的なもので、ホモ・サピエンス各個人の中に宿っている。

至高の戒律は、ホモ・サピエンス各個人の中の内なる核と自由を守ることである。

社会主義的な人間至上主義→あらゆる人間が平等であるという、一神教的な考え方。

「人間性」は集合的なもので、ホモ・サピエンスという主の全体に宿っている。

至高の戒律は、ホモ・サピエンスという種の中での平等を守ることである。

進化論的な人間至上主義→代表例はナチス。

「人間性」は変わりやすい、種の特性。人類は人間以下の存在に退化することもあり、超人に進化することもある。

至高の戒律は、人間以下の存在に退化しないように人類を守り、超人への進化を促すことである。

 

私たちの自由主義的な政治制度と司法制度は、誰もが不可分で変えることのできない神聖な内なる性質を持っているという信念に基づいており、その性質が世界に意味を与え、あらゆる倫理的権威や政治的権威の源泉になっている。これは伝統的なキリスト教の新年の生まれ変わり。だが過去二百年の間に生命科学はこの信念を切り崩した。人間の行動は自由意思ではなく、ホルモンや遺伝子、シナプスで決まるという主張。

 

第13章 歴史の必然と謎めいた選択

歴史の「なぜ」は説明不可能。(たとえば、なぜデンマーク語ではなく英語が、ゾロアスター教ではなくキリスト教が世界中に広まったのか)→決定論は魅力的。そうでなければ、現在の人権の信奉は偶然のものと認めることになる。

一次のカオス系:ex.天気 天気は無数の要因に左右されるが、コンピューターモデルの精度を上げればより正確な予報ができるようになっていく。

二次のカオス系:市場や政治は予想不可能。たとえば、株式市場は予想を踏まえて売り買いされるので、予想が外れるようになっている。

 

文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっているとみる学者が増えている。「ミーム学」

【科学革命】

第14章 無知の発見と近代科学の成立

西暦1500年ごろまでは、それまでの知識や技術を維持するだけだったが、しだいに、化学研究に投資することで自らの能力を高められると考えるようになった。

科学革命=無知の発見

それ以前の「無知」

・個人が何かを知らない 知っている賢人に尋ねれば良い。

・伝統全体が重要でない事柄について知らない クモがどうやって巣を張るのかは人間にとって重要ではないから聖書に書いていない。

→どの時代にも、自分たちの伝統が無視している重要な事柄があると主張する人はいたが、大抵無視されたり迫害されたりした。

近代科学は集団的無知を公に認めた。

神話の多くが疑わしいという証拠が出てきたしまった。どうやって集団の秩序を維持する?

・科学的な説を一つ選び、(科学の一般的な慣行に反して)それが最終的かつ絶対的な真理であると主張する。ナチスと共産主義が取った手段。

・科学を締め出し、非科学的な絶対的真理に即して生きる。自由主義の人間至上主義が取っている手段。人間には特有の価値と権利があるという信念に基づいており、ホモ・サピエンスについての

科学的研究とは共通点が少ない。

科学自体さえもが、研究を正当化し、資金を調達するために宗教的、イデオロギー的信念に頼らざるを得ない。政治的、経済的、宗教的な目標の達成に役立つとアピールする必要がある。Ex.地理的探求は他国の征服に役立つと考えられたため莫大な資金が投入されたが、児童心理学や水中考古学には資金が出なかった。(福祉よりも経済が優先される社会では、児童心理学も金儲けにつながるとアピールした方が資金獲得に有利になる)

 

近代科学 経験的観察結果を収集し、数学的ツールの助けを借りてまとめる。

古代の神話 物語(ナラティブ)の形で説明。

フランシス・ベーコン「知は力なり」
「知識」の真価はそれが正しいかどうかではなく、力を与えてくれるかどうかで決まる。Ex.政治家は原子物理学を理解していなくても核爆弾に何ができるかは知っている。19世紀になって、科学とテクノロジーが結びつき始める。

18世紀になると、宗教やイデオロギーは死や死後の世界への関心を失う。

 

第15章 科学と帝国の融合

1769年に金星の日面通過を利用して太陽と地球の距離を求めようとした。三角法を使うため、各大陸に天文学者を派遣。ロンドン王立協会の出資でクックの遠征隊がタヒチ島に行き、天文学、地理学、気象学、植物学、動物学、人類学、医学の膨大な量のデータを持ち帰った。

その結果として、地球の裏側にまで軍隊を派遣する力を持つことになる。クックが「発見した」オーストラリア、タスマニア、ニュージーランドはイギリス領となり、先住民の文化の根絶や虐殺につながった。科学革命と近代の帝国主義は切っても切れない関係にある。

→科学者も征服者も無知を認めるところから出発し、外に出て得た新しい知識で世界を征服するという願望を持っていた。これが近代科学とヨーロッパの帝国主義との絆になる。(19世紀と20世紀にはテクノロジーがそれにとって代わる)

1770年代、アジアは世界経済の8割を担っていた。インドと中国(明・清)だけで全世界の3分の1。その後1850年にかけて数々の戦争でヨーロッパはアジアの列強を倒し、領土を征服。

ヨーロッパの潜在能力は、テクノロジー上の優位性を享受する前から科学的な方法や資本主義的な方法で考えたり行動したりしていたこと。 

第16章 拡大するパイという資本主義のマジック


歴史の大半を通じて、経済の規模はほぼ同じままだった。

銀行は実際に所有している金額を基に、一ドルあたり十ドルの割合で貸し付けることができる。私たちの銀行口座に記された金額の九割は実際の紙幣や硬貨として銀行に収まっているわけではない。→「信用(クレジット)」によって「成長」を生み出していく。

昔の人は、富の総量は減少するとまでは言わないまでも、限られていると考えていた。誰かが豊かになると、他の人が貧しくなる。だから大金をもっていることは罪悪であり、裕福な人は慈善事業に寄付することで贖罪しなければならなかった。世界のパイの大きさが変わらないのなら、信用が生まれる余地はない。信用とは、今日のパイと明日のパイの大きさの差。

科学革命によって「進歩」という考え方が登場。人々が将来を信頼するようになり、多額で長期的で低金利な融資を受けられるようになった。

 

アダム・スミス『国富論』家族を養うのに必要な分より多くの富を得たものは、そのお金でさらに多くの人を雇い、利益を増大させる。個人起業家の利益を増すことが、全体の富の増加と繁栄の基本である。

 

自分の利益を増やしたいという利己的な衝動が全体の豊かさの基本になるという画期的な思想。経済的な視点だけでなく、むしろ道徳や政治への影響も大きい。「利己主義はすなわち利他主義である」

これは「生産利益を生産増加のために再投資する」という前提のもとに成り立っている。

「資本」と「富」の違い。資本を構成するのは、生産に投資されるお金や財や資源。地中に埋まっていたり、非生産的な活動に浪費されるのは富。

近代以前には生産が大幅に増えることはなかったから、ファラオはピラミッドを作り、貴族はパーティーを開くといった派手な消費を旨とする倫理観が支持されていた。近代以降は実業界の富裕層も一般人も政府機関も、将来の収入を増やしてくれる見込みの高いものに投資しようとする。

 

資本主義は今では単なる経済学説ではなく、一つの倫理体系、どう振る舞うべきか、どう子供を教育するべきか、どう考えるかさえ示す一連の教えになった。第一の原則は「経済成長は至高の善(あるいは至高の善に変わるもの)」

どうすれば途上国に正義と政治的な自由をもたらせるのか?→安定した民主主義の制度には経済的な豊かさと中産階級の繁栄が重要であり、そのためには自由企業制と倹約と自立が必要、というのが資本主義の考え方。

 

近代科学への決定的な影響。生産性と利益の増大につながるプロジェクトにはスポンサーがつく。

逆に、科学を考慮に入れずに資本主義の歴史を考えることもできない。資本主義の信念は、この宇宙に関して私たちが持つ知識のほぼすべてと矛盾する。獲物となるヒツジの群れが無限に増え続けると信じているオオカミの群れがあったとしたら愚かとしか言いようがない。にもかかわらず、人類の経済は近代を通じて飛躍的な成長を遂げてきた。それはひとえに、科学者たちが何年かおきに新たな発見をしたり、斬新な装置を発案してきたおかげ。バイオテクノロジーやナノテクノロジーといった分野で新しい発見があれば、それが新たな産業を産み、そこから生み出される利益が政府や中央銀行が発行してきた「見せかけの」お金を支えてくれる。

 

16世紀、オランダは金融のメッカになる

・貸付に対して期限内の全額返済を厳守し、貸し手が安心して信用供与が行えるようにした。

・オランダの司法制度は政治からの独立を享受し、個人の権利、中でも私有財産の権利を保護した。資本は、個人とその財産を守れない専制的な国家からは流出し、法の支配と私有財産を擁護する国家に流れ込む。

17世紀、オランダは戦争で財力を失い、イギリスとフランスが空席を争った。

フランスは失敗→ミシシッピ・バブル 史上屈指の金融破綻

 

大英帝国は植民と株式会社によって空前の規模になっていく。1840年、中国に宣戦布告。中国はイギリスのアヘン商人の活動を制限しないことに同意し、台湾を割譲。中国総人口の一割に当たる4000万人がアヘン中毒者になった。

エジプトのスエズ運河建設業に対しても、イギリスとフランスが莫大な金額を貸付。負債が膨らみ、エジプトの国民主義者が反乱を起こす。イギリスは軍を送り込み、第二次世界大戦後まで保護領にした。

 

資本主義の地獄

政治による監視がないと、強欲な資本主義者は市場を独占したり、労働力に対して結託したりできる。成長が善とされると倫理のタガが外れる。キリスト教やナチズムなど、一部の宗教は憎しみから虐殺を行った。資本主義は強欲と冷淡な無関心から膨大な数の人を殺した。

資本主義は、資本主義者にしか動かすことのできない世界を生み出した。違う方法で世界を動かそうという唯一の真剣な取り組みである共産主義は、ほとんどの面ではるかに劣るので、誰も再び試そうという気にならない。

→経済のパイは永遠に大きくなり続けることができるのか?どのパイにもエネルギーと原材料が必要…

 

第17章 産業の推進力

直感には反するが、私たちが使用できるエネルギーの量は増量してきた。既存の資源の効率的な使い方や、まったく新しい新種のエネルギーと原材料を見つけてきた。

産業革命以前から人類は多種多様なエネルギーを使ってきたが、ひとつの種類のエネルギーを別のエネルギーに変換することができなかった(自然エネルギーは地形や気候に依存する)。使うことができるエネルギー装置は人間や動物の身体のみ。

→熱を運動に転換するという発想が生まれる。

 

・動物の虐殺

・消費主義 新しいものが必要なくても生産する。

 

第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和

近代の時間

自分が何年に生きているかなんて気にしなかった。隣町と時計が30分ずれていても気づかない。

→放送媒体(最初にラジオ、続いてテレビ)の登場が、時間表のグローバル・ネットワークを誕生させた。

 

家族とコミュニティの崩壊

福祉制度、医療制度、教育制度、建設業界、労働組合、年金基金、保険会社、銀行、警察といった役割をすべて家族が担っていた。家族の手には負えなくなった時、地域コミュニティが助け舟を出す。→国家や市場が家族から解放したことで「個人」が生まれた。

 

原子の平和(パクス・アトミカ)

歴史的にみると、世界は平和になった。人々が戦争を想像することができないほどに平和が広まった例はこれまでに一度もなかった。

・戦争の代償が大きくなった。核兵器によって、戦争は集団自殺に等しくなった。

・戦争による利益が減少した。以前は「富」は畑や家畜、奴隷、金だったが、現在は人的資源や技術的ノウハウ、銀行のような複合的な社会経済組織から成るため、富を奪うことが難しくなっている。

・現在の資本主義では対外貿易や対外投資が重要になるため、戦争するよりも外交した方が利益は大きい。

・グローバルな政治文化に構造的転換が起こった。歴史上、多くのエリート層が戦争を善だと考えていたが、今日では戦争は悪であり、回避できると信じられている。

これらの四つの要因は正のフィードバック・ループを形成。核兵器の脅威が平和主義を促進→戦争よりも交易が盛んになる→公益によって平和の利益と戦争の代償は増大。

 

第19章 文明は人類を幸福にしたのか

これまで私たちは、健康や食事、富など、おおむね物質的要因によって幸福になると考えてきたが、哲学者や詩人、聖職者は幸福の性質について何千年も思考を重ね、その多くが社会的、倫理的、精神的要因も幸福に重大な影響を与えると結論してきた。

 

心理学者と生物学者の研究

何を計測するのか?→「主観的厚生」=どのように感じているか

質問に回答してもらうという方法を取る。

・富は幸福につながる:ただし、一定の水準を超えると影響はなくなる。

・病気は短期的な幸福度を下げるが、長期的な苦悩となるのは、それが悪化の一途を辿ったり、けいぞくてきに心身を消耗させる苦痛をもたらすときだけ。

・家族やコミュニティとのつながりを感じている人は圧倒的に高い幸福度を示す。特に結婚生活は重要。貧しかったり病にふせっていたりしても、その程度が甚だしくなければ孤独な億万長者よりも幸せという結果が出ている。

→幸福は客観的な条件(富、健康、コミュニティ)にそれほど左右されず、客観的条件と主観的期待の相関関係によって決まる。

私たち現代人は、不便さや不快感に対する堪え性が弱まったために祖先よりも強い苦痛を感じていると思われる。

幸せかどうかが期待によって決まるなら、マスメディアと広告産業は世界の幸福を枯渇させているかもしれない。比較対象が村人だけではなく海外セレブにまで広がったから。だとすれば、不老不死でさえ不満につながるかもしれない。親しい人の死はより一層耐え難いものになる。

 

化学から見た幸福

生物学から見ると、幸福はセロトニンやドーパミン、オキシトシンからなる複雑なシステムによって決定される。→幸福は繁殖を促進するか妨げるかという程度の役割しか持っていない。幸福度の調整システムによって、極端に不幸にも極端に幸福にもならないようにできている。

私たちの心の空調システムは、あらかじめ設定された範囲内で自由に推移する。フランス革命がセロトニンに影響することはない。

ただし、私たちの幸福は生化学に握られている、ということはわかった。cf.オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

 

1.快感=幸福とは限らない。日常的に楽しいことや嫌だったことを挙げてもらうと育児の負担はかなり重いことがわかるが、同時に大多数の親は子どもこそが自分の喜びの源泉だと答える。

→客観的に過酷な状況でも、なんらかの意義を感じていれば幸福度は高くなる。

 

2.純粋に科学的な視点からみれば、人類は目的も持たずにやみくもに進化する過程であり、何の意味もない。したがって人間が人生に見出す目的はどんなものであれ妄想に過ぎない。それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想をその時々の支配的な集団的妄想に一致させることかもしれない。幸福は自己欺瞞でしかないのか?意義のある時代、たとえば戦時中の方が現代の日本人よりも高い幸福度を示すかもしれないな。だから『暇と退屈の倫理学』で考えられていることを考える必要がある。

 

3.前述の二つに共通している前提は、幸福とは快感であれ意義であれ、ある種の主観的感情だということ。消費者は常に正しいという自由主義独自の考え方。歴史上、大半のイデオロギーは善や美は客観的なものであり、凡人の感情や嗜好には信用を置いていなかった。利己的な遺伝子説も、生物がDNAから自由になることはないと主張。

→仏教は特定の感情を追求することをやめ、「自分は今どのような状況にあるのか把握し、受け入れること」を説いた。幸せへの鍵は、自分が本当は何者なのか、あるいは何であるかを理解すること。

 

第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ

・バイオニック生命体 AIのシンギュラリティよりも、人間がサイボーグ化する進化のほうが早いのでは?

乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて変えていく。私、あなた、愛、憎しみといった、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが意味を持たなくなる=特異点

これらの技術開発(ギルガメッシュ・プロジェクト 人間の不死を目指す。正確には老衰で死ぬことのない「非死」)は、倫理的な問題が議論されつつも止まることはないだろう。なぜなら、「人命を救うため」の延長線上にあるから。「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」という問いに直面しつつある。

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