実際のところ、運×才能で成り立っているという話

この世界には努力というものがある。
どれだけ力のない者であっても、努力することで才能を上回ることができる。
そういう風に凡人を慰める材料として利用される。

私も努力を否定するつもりなんてない。
成功する人は須く努力しているという主張は最もだと思う。
ただ、そこには必ずと言って良いほど、才能や運が絡んでいると言いたいのだ。

そもそも、なぜ成功している人は努力が基盤と言われるのか?
それは非常に簡単な道理だ。
例えば、毎週決まって宝くじを買う人が居たとする。
その人は発表される時に常にハズレだったが、ついに数億円の当選額を手にした。

成功している人は、すなわち宝くじを買う人だ。
宝くじを買わないと当選にはありつけない。
努力とは毎週買うことを指し、成功とは当選を指す。
要はそういうことだ。
言い換えると「当選している人は須く宝くじを買っている」となる。

当たり前だ。

努力が基盤にあるのは当然なのだ。
行動なくして結果はない。
故にホリエモンやひろゆきのような人たちは、悩んでいる人たちに「やれば良いじゃん」と無責任な発言をする。
行動すれば、少なくとも失敗という経験が手にできるからである。

さて、ここで本題に戻ろうと思う。
努力を認めた上で、この世界は運と才能で成り立っていると主張したい。

運に関する意見は、前述した宝くじの例題で十分だろう。
とにかく行動すれば、運が付いてくる可能性もあるのだ。

オーディションだって、自分を磨いて、相手に認められるように努力していても結局は相手次第である。
面接はコミュニケーションと言われるくらい。
機械・AIが侵食している時代でも、採用するのは人だ。
努力した結果より、もしかするとその場の盛り上がりが重視されるかもしれない。

そこにあるのは運である。

では、才能という面はどうか?
努力すれば成長があり、成長したということは努力が報われたことになるのではないか?
もちろん、努力が結果を生むことに間違いはない。

だが、同じようにやっても報われない人は、どういう意図で結果が出ないのか?
例えば、桃と栗は3年で実るけど、柿は8年の歳月をかけてようやく実るとされる。
同じ尺度、3年で測ったら、柿は努力が報われていないように感じないだろうか?
柿はあと5年あれば成熟するというのに。

つまり、努力は才能に依存していると言っても過言ではないのだ。
元から備わっている成長の周期が異なるのだから、同じように取り組んでも結果が出ない人が居る。

努力したから報われるのではなく、ある程度やれば花開く種だったに過ぎない。
モノマネ芸人さんを見ているとそれを痛感する。
芸歴8年を越してもそこまで似てない人もいれば、新入りがとても似ている人がいる。
努力の差ではない。才能に既に差があるのだ。

そして何よりも才能は運がないと開花しない。
自分に笑いの才能があったとしても、堅実に会社員として日々を過ごしていたら気付きもしない。

何かしらの外的要因によって才能が開花し、段々と自分が分かってくる。
また、出会うための運というのは、努力で勝ち取ることが可能とも言える。

この世界は運と才能で成り立っているが、そこに割って入っているのは努力だと思う。
努力が橋渡しの役目を果たしているのかもしれない。
けれど、努力、動く力というのも、才能という形で分類できるとも考える。

まぁ、私はこの世界が運と才能によって構成されていると主張しよう!


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