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【創業ストーリー前編】「日本をなんとかしたい」教育に資本がまわる社会を作る「Alumnote」着想のきっかけ

こんにちは。アルムノート広報担当です。今回は、代表取締役CEO、中沢冬芽(なかざわとうが)のインタビューをとおして、アルムノートの創業ヒストリーをお届けします。

アルムノートは、「未来の教育に資本をまわす」をミッションに、高等教育の質を維持・向上する仕組みを作り、日本社会の原動力となる教育の未来に貢献することを目指している会社です。

創業者である中沢は1998年生まれ、長野県出身です。東京大学法学部在学中にGoogle Japan、Rapyuta Robotics、 Apple Japanにて、自治体や学校法人、大手企業との事業開発・実装実験プロジェクトに従事した後、大学3年生のときにアルムノートを創業​​しました。どんな経緯でAlumnoteという事業を着想したのか、きっかけとなった出来事や起業に至るまでのヒストリーを紐解きます。

研究者である父の影響と、海外経験から「世界の中の日本」について考え始めた少年時代

ーアルムノート創業のきっかけとなる出来事について教えてください

アルムノート創業の種子のようなものがあるとすれば、小学生の頃にさかのぼります。僕の父は医師で、大学病院の研究者でもあるのですが、その父の仕事の関係で小学校の3年間ほど、アメリカに住んでいたことがあります。当時の自宅の近所にヒューストン大学があり、ときどき遊びに行っていたのですが、敷地が広大で施設も充実していて、訪れるたびにその環境の素晴らしさを体感しました。そして子ども心に、将来はこんな大学で自分も学んでみたいという憧れが芽生えていました。

アメリカの大学に憧れを抱きつつ、日本に帰国したのですが、その頃、研究者である父から、よく聞かされていたのは「多くの日本の大学が資金の関係で研究が制限されている」状況についてです。帰国後、実際に自分の目で日本の大学を見て、改めてアメリカとの違いを実感したと同時に、日米の大学の資金力にこれほどまで差があるのはなぜなのか疑問を持ち始めました。

中学生の頃には、大学の財務諸表に興味が湧きました。興味本位で「大学名」×「収入」で検索し、会計の状況を確認したりする中で、アメリカと日本の大学の資本状況にはかなりの差があることを目の当たりにして驚いたことを覚えています。

ー疑問を持ち調べていった先に、日本の大学の課題に気づきはじめたのですね

そうですね、高校生のときには海外大学への進学も視野に入れ、比較的小規模な大学に魅力を感じて調べていた時期もありました。その際も「小規模な大学の運営状況はどうなっているのか」「なぜ小規模なのに潤沢な資金があるのか」と疑問に思い、海外の大学経営についても深掘りしていましたね。

こうして、アメリカと日本の大学の比較を進めていくうちに、このままでは優秀な研究者は研究費が潤沢にある海外の大学に出ていってしまうのではないかと危機感を抱きました。大学の資金力の差は、学生の質や教育への関心などにも影響を及ぼします。実際、博士課程への進学率や、論文数などにも現れていて、日本の大学は海外と比較するとそのパワーが下がってきているんですよね。

同時に、大学に限定せず、「日本をどうにかしたい」という思いも強くなっていました。小学生時代にアメリカに住んでいた経験からか、「世界の中の日本」という視点で考えることが多かったのですが、世界の国々と比較して、日本は元気がないなと感じていて。元気な日本を取り戻すために「教育」という領域が肝になるだろうとも考えていました。

日本の大学、高等教育の質が維持できなければ、日本の将来の国力や経済力にも関わる深刻な問題だと気づき、なんとか仕組み化できないかと考え始めたのがアルムノートの創業や事業の着想のきっかけになっていると思います。

「課題を見つけると解決したくなる」事業に夢中になった大学時代

ー東京大学に入るため、子どもの頃から勉強もしてきたのでは?

幼少期から中学生頃までは、勉強よりも、ヴァイオリン漬けの日々でした。毎日の練習に加え、週1回レッスンのために、自宅のある長野から東京まで通っていたほどです。ヴァイオリ二ストを目指したこともあったのですが、あるコンクールで自分より年下の子の天才的な演奏を聴いて芸術の世界の厳しさを思い知り、断念しました。

高校1年生のとき、学校の語学研修プログラムに参加し、ケンブリッジ大学を訪れた際に、勉強に目覚めました。「がんばって勉強すれば、こんなかっこいい場所、かっこいい人たちと肩を並べることができるんじゃないか」と思ったのがきっかけです。

少し話が戻るのですが、アメリカ在住時の小学生の頃は、英語がうまく喋れなかったこともありいじめられていて、以来、「何かで結果を出して、周囲に認めさせてやろう」という気持ちをずっと持ち続けていました。この気持ちが勉強に向かったんですね。海外大学への憧れはあったものの、経済的・学力的な壁があり断念し、迷った結果、東京大学に進学しました。

ーどのような学生時代を過ごしたのでしょうか?

長野県から上京したのですが、家庭の教育方針で、学費や生活費を全額援助はしてもらえなかったんです。学費と生活費の一部を自分で稼がなければならなかったので、事業をいろいろとやってみようと考えました。

もともと課題を解決するのが好きで、それは僕にとっては数学の難問を解くのが楽しいのと同じ感覚なんです。ステークホルダーが多く簡単に解決できそうにない課題を見つけると、自分こそがなんとか解決したい、どうにか突破する方法はないかと考え始める。それが結果として社会課題の解決に繋がれば、喜んでくれる人がいて、達成感もありました。

ーその事業というのは、やはり今のアルムノートの事業と同じ大学関連でしょうか?

大学経営や財務体制への興味は持ち続けていましたが、当時はいろいろなジャンルで課題を見つけては解決していくことが楽しくて。興味の範囲も広かったので、大学経営に関わる事業にこだわっていたわけではありません。

たとえば、信州大学の医師兼研究者である父の課題解決に関連し、心電図開発ソフトを信州大学と共同で開発しました。プログラミングを独学で習得し、外国人留学生のための情報サイトを制作したこともあります。ほかにも、SNSを駆使した選挙コンサルティングのボランティアなどを経験しました。

当時これらの事業を一緒にやっていたのが、いまアルムノートでもビジネスパートナーである沼田です。大学の同じクラスで意気投合してからは、2人で寝食を忘れ、渋谷のカフェでビジネスの話ばかりしていましたね。プログラミングを独学で習得して、ひたすら2人で向き合ってコードを書いていた時期もありました。そして、気づいたら事業に向き合うことが面白くて夢中になっていた、それが大学1〜2年生の頃です。

ー事業のほかに時間を使っていたことはありますか?

大学1年生の夏に、ソウル大学の交換留学プログラムに1か月ほど参加しました。大学2年生の夏には、アメリカのヒューストンにあるNASAで、宇宙ビジネスを学ぶプログラムに参加したこともあります。そのほかの時期も、バックパッカーとして世界のいろいろな国をめぐり、海外でも多くの時間を過ごしました。アジアのほとんどの国、ヨーロッパ、ロシアや東欧、北欧など約30か国、いわゆる華やかなリゾート地とは真逆の刺激的なエリアを選んで訪れました。

例えばモンゴルの空と大地しかないような場所に滞在したときには、自分自身が東京で大切にしていたプライドがいかにちっぽけであるかを思い知らされました。本質に向き合う機会になり、価値観を覆された体験となりましたね。インドの貧困地域を訪れたときには、日本や自分自身が恵まれた環境だったことを知りもせずに、文句を言っていたのだと気づきました。それ以来、何をするにも環境を言い訳にしなくなりました。そして、若者が貧困から抜け出す方法として、教育が重要であることを改めて実感したのもこの頃です。

ゼロイチが好き。就職ではなく起業する道を決意した

ー学生時代にはインターンを経験していますよね?

スティーブ・ジョブズなどのアメリカの起業家やシリコンバレーのIT起業に憧れて、いずれはGAFAに就職したいと考えていました。当時は、Google Japanに入社することをゴールとして、大学1年生の冬から入念な準備を重ねました。努力のかいあって難関を突破でき、Google Japanのインターンとして採用されて嬉しかったことを覚えています。

苦労して手に入れたインターンの席だったのですが、入社してまもなく、自分は大企業では仕事を楽しめないかもしれないと気づいてしまって。上司にも「君みたいな人はここにいるべきではないかもしれないね」と言われました。自分が漠然と憧れていたのはGoogleの創業期のイメージだったんですね。さまざまな事業の面白さや難しさを経験して、やはり自分がやりたいのは0→1なんだと改めて認識したんです。この感覚はApple Japanでも同様でした。

Rapyuta Roboticsでは、営業やプロダクトマネージャー、エンジニアなどあらゆる業務を担当させてもらい、いわゆるベンチャーやスタートアップのカオスな環境が刺激的で面白かったです。プロダクトが炎上するなど大失敗もあったのですが、すごく勉強になりましたし、起業したいという思いがますます強くなりました。

ーアルムノートを創業した頃のお話を聞かせてください

インターンを経て起業の意思が固まった頃、世の中がコロナ禍に突入します。改めて自分の将来について考える時間ができたことで、当初から課題意識を持っていた大学経営の資金調達に立ちかえりました。

アメリカの大学の財務諸表を見ると、たとえばハーバード大学では、収入の45%を寄付金・基金が占めていることがわかります。ハーバードやイエールといったアメリカの有名大学では、寄付金の運用にも非常に力を入れていて、運用専門の担当者も多数在籍し、運用益だけでも総収入の30%以上を占めています。一方で、日本では東京大学の寄付金運用益が総収入のわずか0.1%程度というのが現状で、授業料以外の財源の確保に難航しているんですよね。

アメリカでは、卒業生ネットワークが活発で、寄付金という形で母校との繋がりを継続している人がたくさんいます。日本の大学でも、財源を確保するために大学のOBOGのネットワークで活性化し、仕組み化できないかと考えアルムノートを創業しました。2020年10月のことです。高校の同級生2人と大学の同期1人を誘って、同窓会サイトを作成し、母校の同窓会本部に販売しに行くなどしていました。

UTECとの出会いとアルムノートのはじまり「Giving Campaign」

ーアルムノートの事業がスタートした頃のお話を聞かせてください

創業してまもない頃は、海外の成功事例を調べつくし、日本で実現できる方法はないか試行錯誤する日々でした。事業が大きく動いたのは、2021年3月に出場した「起業家甲子園」で、総務大臣賞と協賛企業特別賞をいただいたのがきっかけです。日本の大学経営をなんとかしたいという僕たち思いやアイデアに共感してくれたUTECさんから、初めて出資を受けることができました。UTECさんの協力がなければ、今のアルムノートはなかったと言っても過言ではありません。

いまも続いているアルムノートの事業のひとつ「Giving Campaign」は、大学の研究室や部活を応援する目的で、集まった応援金を分配する仕組みなのですが、初回の分配金すべてを出資してくれたのが、UTECさんです。僕のアイデアからスタートした企画ではありますが、UTECさんがこの事業のために予算を確保してくれて前面に立ち、主催という形で牽引してくれたことで、初年度の東京大学との「Giving Campaign」が実現しました。それから合計4回も、規模を拡大しながら続けてこられたのは、この1回目の成功がとても大きいです。ここが実質、アルムノートの始まりだったと言えるかもしれません。

ーその後、何か想定と異なる壁などはありましたか

立ち上げたばかりのスタートアップが大学にアポイントを取るのは、想像以上に難しかったです。Giving Campaignと並行して、大学向けの名簿管理システムの開発を進めていました。話を聞いてもらえさえすれば、きっと多くの大学が導入を検討してくれるシステムだという自信がありました。「大学が自力で財源を確保するために、アルムナイネットワークを活性化させる」という文脈でなら話を聞いてもらえるだろうと考えたのですが、最初の頃は全然ダメでしたね(笑)

一方で、国からの補助金は年々、削減されていく流れにあり、最近では大学の現場でも資金調達の必要性について浸透してきているように感じますし、実際に多くの大学で話を聞いてもらえるようになりました。

2023年に、政府は10兆円規模の大学ファンドを創設して、文部科学大臣の認定を受けた研究大学に運用益を分配する計画を発表しました。国際的に卓越した研究の展開が見込まれる大学を「国際卓越研究大学」として認定して、大学ファンドを配分する施策で、大きなニュースになりましたよね。

これは一定の助成が見込まれるインパクトがあるのですが、認定校には、年3%程度の事業成長を求められるという実は厳しい一面もあって。これによって、大学運営の体制強化が課されるという新たな課題解決の必要も出てきています。


後編では、いま展開している事業を軌道に乗せるまでの経緯や今後の展望、組織づくりなどについて話を聞きます。

<プロフィール>
中沢 冬芽(25歳)
1998年 長野県生まれ。
2017年 東京大学 文科一類 入学
東京大学法学部在学中にGoogle Japan, Rapyuta Robotics, Apple Japanにてインターンを経験
2020年03月「令和2年度 起業家甲子園」総務大臣賞 受賞
2020年10月 Alumnote 創業
2023年03月 東京大学 法学部 中退
2023年 Forbes 30 Under 30 Japanに選出

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