映画「違国日記」と「ぼっち・ざ・ろっく!」で考えるモノローグの在り方

6月7日大変めでたい日、私が好きな漫画2つの映画化が重なったのでハシゴして見て来た。
繋げて見たからなのか分からないが、私の中にぼんやり浮かんだことを書いていく。
モノローグってなんだろうって話だ。

違国日記

両親を交通事故で亡くした15歳の朝(早瀬憩)。葬式の席で、親戚たちの心ない言葉が朝を突き刺す。そんな時、槙生(新垣結衣)がまっすぐ言い放った。
「あなたを愛せるかどうかはわからない。でもわたしは決してあなたを踏みにじらない」
槙生は、誰も引き取ろうとしない朝を勢いで引き取ることに。こうしてほぼ初対面のふたりの、少しぎこちない同居生活がはじまった。人見知りで片付けが苦手な槙生の職業は少女小説家。人懐っこく素直な性格の朝にとって、槙生は間違いなく初めて見るタイプの大人だった。対照的なふたりの生活は、当然のことながら戸惑いの連続。それでも、少しずつ確かにふたりの距離は近付いていた。
だがある日、朝は槙生が隠しごとをしていることを知り、それまでの想いがあふれ出て衝突してしまう――。

この作品、原作ではモノローグがとても多い。
登場人物たちは多く内面で葛藤し、言われたことを反芻し、自分が次に口に出す言葉に一音一音当てはめるかのように言語化していく。
言葉が飛び出る前の状態をそれぞれが模索する様を、読者は垣間見ていくことができる。
特に朝と槙生、それぞれの心中はそれぞれのことを抱えて、お互い言っていいのか、思わず言ってしまったのはどうしてなのか、考え直しながら歩み寄ったり離れたりする。
故に「そこまで生きてて思ったことなかったな」とか「私以外にそういうこと考えている人いるんだ」とかの体験を得ることが出来る。出来なくてもいい。とにかくこの作品のモノローグが持つ効果は大きい。

しかし映画化の際、そのモノローグは排除された。
覚えている限りであれば徹底的にそれは選択された。
映像化においてモノローグが消されるのは珍しいことではない。
テンポを損なうし、あるいはポエティックになりすぎる。
映像媒体においてあまり向いていないのがモノローグだ。
それは分かっているのだが、かなり思い切ったハサミの入れ方に私は観ながら結構戸惑っていた。言い聞かせながら観続けていた。
あのシーンはこういうこと考えながら喋っていたのだよなぁとか思い返しながら観ていた。これ未読の人に伝わるのか?とか思っていた。
特に槙生の発達障害については伝わったのだろうか。

ガッキーはかなり槙生であった。
発達障害の目線や喋り口や動きだったし、原作の特徴的な吹き出しの使い方を的確に捉えてセリフ化してくれている。
台本のテキストではなく吹き出しを紡ぐような演技のアプローチをしているので、この人が槙生役で良かった。
モノローグの無い状況下でこのキャラクターの内面を外側に出してみせるのはめちゃくちゃ大変だったのではないだろうか。
ただガッキーは頑張ってるけどやはりここまで内側の声を撤廃する必要はあったのかと疑問に思う。そうまでしてやりたかった映像劇はなんだったのだろう。
内側の声も彼女の声なんじゃないのか?
もんやりしたものを抱えて他人のレビューを眺めたら「この人コミュ障とか作中で言われてるけどめっちゃ色々持ってる側の人じゃん」とか書かれていて私はめっちゃ悔しかった。そりゃわかんねぇよ。そこ見えるところ切ってんだもん。伝えてぇ~~~~~~~~~!!!!

ぼっち・ざ・ろっく!

“ぼっちちゃん”こと後藤ひとりは会話の頭に必ず「あっ」って付けてしまう極度の人見知りで陰キャな少女。​
そんな自分でも輝けそうなバンド活動に憧れギターを始めるも友達がいないため、
一人で毎日6時間ギターを弾く中学生時代を過ごすことに。

上手くなったギターの演奏動画を“ギターヒーロー”としてネットに投稿したり文化祭ライブで活躍したりする妄想なんかをしていると、気づいたときにはバンドメンバーを見つけるどころか
友達が一人も出来ないまま高校生になっていた……!

ひきこもり一歩手前の彼女だったがある日“結束バンド”でドラムをやっている伊地知虹夏に
声をかけられたことで、そんな日常がほんの少しずつ変わっていく――

この作品、原作ではモノローグがとても多い。(2回目)
人見知りの主人公のぼっちちゃんが延々と内面自分語りしていくシーンが多い。
そのネガティブな語りに読み手は共感したりしなかったりする。
ぼっちちゃんはモノローグを経て奇怪な外部出力をしてしまうので、このモノローグが無ければだいぶ我々は彼女がどういったキャラなのか掴みにくくなるだろう。

この作品はアニメ映像化の際、大量にそのモノローグを採用し、増やした。
結果としてよりぼっちちゃんの内面はより伝わりやすくなり、特徴的な心情演出も相まってキャラクターとしてとても人気が出た。他にも色んな理由はあると思う。
モノローグの映像化の成功例と言っていいだろう。
人気が出た本作はTVアニメの総集編として映画化を果たした。
その映画化の際、この作品は何をしたのか?

あるシーンでTV版からモノローグを一つ消したのだ。
ここだ。

この冒頭のぼっちちゃんの「けど…!」からの一連のモノローグを劇場版ではばっさりカットした。
びっくりした。むちゃくちゃびっくりした。のでこの文を書いている。
なんだったら多分一番アツいシーンなのでここを変えてくるとは思っていなかった(というかここ以外のシーンは圧縮しただけで別に変えていなかった)ので、私はその時どう感じたのかを掘り下げていきたい。

まず突然ぼっちちゃんと切り離される。
それまで彼女の語りに任せて進行されていた作品が急に突き放される。
スクリーンを眺めている私が急遽思い起こされ、作中のステージを眺めている私がそこに存在する。
私はスターリーの場に居合わせた人々とほぼ同じ衝撃で彼女の豹変した演奏を眺めている。
さっきまでの淀んだ空気を切り裂くように虎が背中を丸めて暴れ始めている。ギターが鳴り響いている。照明が灯り、これまでの演奏と全く違うステージが繰り広げられる。
この全く違うステージはTV視聴時のステージとも違う。
その違いは劇場の音も加味されての印象だが、それ以上に上記のモノローグを突如切り離したことが影響している、というかこの時の私にとってはそうであった。

見覚えのない後藤ひとりの動きに戸惑うバンドメンバー達の印象にも重なり合うことが出来た。私はこの彼女を知らない。内面を語らなくなった彼女は分からない。少し、怖い。そして、かっこいい。めちゃくちゃかっこいい。
あー劇中内の客席だとこう見えてるんだ。そりゃ脳焼かれちゃうよファンの人達。こんなん急に見せられたらさ…
焼かれていく神経の中、私は思った。
そうか、モノローグって効果的に消すとここまで外部的な感覚の映像になるんだ…(ジュワァ…


扱いが難しいけど、効果的に足し算引き算出来れば映像媒体におけるモノローグってかなり強いインパクトを残すんだなぁと感じた。

槙生ちゃんがオール・ザット・ジャズのディスクを持っているのはあまりに分かりすぎたので好きだ。でもフライド・グリーン・トマト持ってるみたいなサービスでも良かったんじゃないかとか思うのだ。
とにかく映画で違国日記良いなとか思ったら原作にも触れてほしいんだ私は。あなたに伝わってない感情が沢山あるんだ。
ぼっち・ざ・ろっく!の後半でも何かちょっとした工夫がなされていたりするのか気になっているんだ私は。Re:Re:聞きてぇよ…聞きたいの…

みたいなことを帰宅してから考えている。
私もどこかにこのモノローグを落としてみたかったのだ。
読んでくれてたらありがとう。両方の原作にも触れてほしい。


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