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教科書の見つからない社会へようこそ

新卒一年目は正直、大学生活の延長線上と、ひきこもりからの社会復帰のリハビリ期間だった。「これをやってね」と出された課題を期日までに終え、「これを覚えてね」と言われたことを少しずつ頭に入れる。

以前からこのnoteに書いてきたように、同期もいないしリモートワークでたまにしか会社に行かない中で、「報連相」「コミュニケーション」「仕事の力の入れ具合」といった「基本のき」を、うだうだ悩みながらも身に着けて行った。会社に居場所があったし、周囲も多くを求めなかった。

そして2年目。できることが増えていくにつれ、要求される「当たり前」のレベルもおのずと上がっていった。そして時々、周囲の求めるそれに全然達せていない自分に気付いた。リモートワークが共有できる情報量を制限することで、周囲の人がどんな仕事をどういった進め方でしているのかがイメージできない。他の部署はどんな風に動いていて、会社としてどういう方向性に行こうとしているのかすら、他の社員も良く分かっていない。

そんな中でベテラン社員の方に仕事のコツを聞いても、「経験を重ねる中で自然と身についてしまったから答えようがない」とだけ返ってくる。
「取り扱っている製品に対して何であれ答えられるようにしよう」と躍起になり、今まで学んだ概念を全て丸暗記しようとすればするほどドツボにはまる。
極端な話「教えてないけど知ってて当然だよね」という概念まで出てくる。

一時は切り抜けられたかのように見えた「分からないことがあったら何でも聞いてねと言われても、何が分からないかが分からないんだよ」が、また再発し始めた。

キャリアプランだってそうだ。このままスペシャリストを目指し、とりあえずうちの部署で求められている「先輩社員の姿」に近づくか、そこの知識は程々にしつつ他分野の知識も身に着けて、別角度から貢献するか。

そして社会に出てしばらくして、「そもそも会社にいる誰もが、正解なんて分かっちゃいないんだ。言われたことを言われた通りやるのは当たり前。誰に教えられるわけでもなく、自分から行動を起こしたり知識をキャッチアップできる人間が評価されるんだ」と気付いた。会社は学校じゃない。皆が皆、教科書なんてない中で自分なりの正解を作り出しているんだ。

ここまで書くといよいよ、ピーターパンシンドロームから抜け出して棘が無くなり、仕事が生きがいのつまらない人間になっちまったなぁと思えてくる。傍から見たら「完全に洗脳されてんじゃん。仕事辛いなら逃げろよ」だろう。

でも、未だ転職を考えていないのはいくつか理由がある。

1つ目は、「オープン就労の発達障害者が、一般と変わらない仕事を1年4カ月続けている」という事自体に社会的意義があると思うから。
「障害者」という理由で後ろ指を指す人がいない環境は、自分にとって居心地がいい。そしてその中で困ったり逡巡した実体験を残しておくことは、どこかの誰かを救うかもしれない。

そこからスライドして、「会社内で学ぶべきことを学びきっていない」と言うのが2つ目の理由。規模が小さいからこそ、ノウハウは整っていないものの「マーケティング」「営業」「経営」など、自分から動けばという条件付きで観察できる。
「この部署・人はこういったやり方で仕事してるんだな」という社会勉強をやりきった感がまだまだ無い。就業後に十分な時間が取れる中でやりたい勉強や身に着けたい常識も山ほどある。

最後は「自分の頭で考え、付随して長所を伸ばした人間が評価される」という社風だ。ズルをしてでも数字を取った人間より、自分ができることを通じて他者に貢献したり、どんな形であれ組織の発展に寄与した人間が評価される。

例えば、「○○の技術のエキスパートして、××件のプロジェクトを完遂しました」という実績自体ではなく、そこから通じて得た「新しい知識を貪欲に取り入れる姿勢」「周囲を引っ張る力」といったソフトスキルをどう成熟させたかを見てくれる。

これは数字にこだわる人間にとってはアンフェアに思えがちだが、「AIが出てきて、今まで僕たちがやってたビジネスモデルが全部パーになりました」があり得てしまう世の中だからこそ、いざと言う時にフレキシブルに動ける人間であろうねというメッセージだと受け取っている。

「皆正解が無い中で生きている」→「自分の今いる場所も別に正解じゃないかも知れない」→「じゃあ何で生きてるの」と路頭に迷う人がいる中で、ただ一つ自分の中の正解は「鳥が空を飛ぶように、人間が自分の長所と居場所を見つけて少しでも社会に貢献すること」。

自分がその正解を体現しつつ、日々の中で誰かのそれに間接的にでも関われたら良いなと思いながら、教科書の見つからない社会を今日も生きる。

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