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自分が不在

だれかを憎いと思う時、そこには自分が不在になっていることが多いと思う。

自分が不在になる、というのは、自分の取りえた(でもやらなかった)行動にたいする責任だとか、自分がなにかのメリットと引き換えに選んだデメリットの、そのメリットの部分を"忘れて"、

一方的にデメリットの部分だけを見て、その責任を相手に一方的に転嫁してしまう、ということ。

問題をすり替えている、ともいえる。

だれかが自分をみつめる顔や言葉のなかに、"怒り"のエネルギーを感じることがある。

私は人の考えていることとか、感情とか、思考回路とかをわりと感じとってしまう方だとおもう。

その人の生きてきた背景などを知っていたり、自分の方が強い立場にあると思っている人の思考回路はわりと簡単にみえてしまう。

そこには彼らのフラストレーションがある。

そしてそれを解消したい、という欲求がある。

たとえば。

結婚生活に不満を感じながらも、結婚生活を続けている人は多い。

「独身は気楽でいいわね」

などと言われる。

でも、その人は、いつでも結婚生活をやめる、という選択をすることができる。

不満を上回るメリットがあるから、その人はその結婚生活を続けていると思う。

たとえば独身だったら、当たり前だけど自分の食べる分は全部自分でなんとかしなくてはならない。

結婚している人は、はっきりと認識しているかどうかは別にしても、お互いに役割を分担することで、ある種の協力関係のもとに、生活をともにしている。

家庭によっては、お金の心配は奥さんの方は全然しなくてもよい、という人もいる。

私に限っていえば、どんなに質素でも、自分の食いぶちくらいは自分でなんとかしていないと、不安に感じるのだが…。

自分の維持したい生活レベルは、旦那なしではなしえないということは往々にしてあると思う。

そのかわり、共同生活をしていれば、お互いにいろいろと制約も出てくるだろう。

女性の生き方にしたって、結婚して子どもがある人もいれば、離婚や死別をして1人で子どもを育てている人もいる。

独身で、自分のやりたいことをやることを一番に大切にしている人もある。

そもそも人は、自分の行動や考え方のすべてについて、いちいち他人に許可を取って生きてなどいない。

口に出さなくても、とくに表沙汰にはならなくても、秘密を抱えている人はたくさんいる。

相手の不貞を責める当人が、そもそも夫を裏切っていた、という場合もある。

自分は許してもらったのに、なぜ相手の時には人前で恥さえかかせるのか、まったく理解ができない。

優しい人は、相手のことを考えて、相手の非を責めることなしに、自分が相手や関係者の利害関係による責めをも、全部引き受けさせられてしまうということがあると思う。

基本的に、同じことをしても、人を責め慣れている人は人を責めることで自分の利益を確保しようとするが、

優しい人は、相手の非を、相手や関係者の不利益を考え、ついに責めることなく、自分が全部それを背負ってしまう、

そんなことがあると思う。

能力の高い人、苦労の多かった人ほど、自分ですべて抱えこむ、そんな傾向があると思う。

相手の明らかな非を責めないので、周囲はその人やその周辺で起こっている出来事について、誤解して解釈する

相手が、社会的な階級の高い人であった場合などは、なおさらだ。

お嬢さんやお坊ちゃんは、スポイルされている人も多い。

お金があることで、小さい頃から自分は「特別」と思って生きてきているし、なにか問題があれば親やお金が解決してくれてきたから。

自分より立場の弱い人を、立場の強い人同士で包囲して、堂々と虐めていたりする。

そのことでその人は実際には自分の人生に負債を背負っているが、立場の弱い人は、それを争う時間もお金もないので、結局のところそれは泣き寝入りで終わる、

そんなパターンが多いように思う。

でも、自分が許せないこと、解せないことは、自分のために相手にはっきりと言っていいと思う。

何十年かかったとしても。

立場の弱さによって、それを飲む、という選択ばかりしていたら、

同じように自分も、自分より立場の弱い人にはつらく当たってもいい、という思考回路をみずから体現することにもなりうる。

人は、神の前に平等だと思う。

神様はすべてお見通しだと思う。

だから、人間の世界ではまかり通ったことでも、あるいは誤解されて辛い思いをしたことでも、それは神の目には明らか。

死んだらすべて終わりではないから。

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