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道なき道をゆく

闘病は、道なき道だ。

エビデンスなんてない。

自分で探り当てていく。

間違った解決法を信じ、余計悪くなることもあるかもしれない。

しかし、方法がない、不治の病と言われてしまっているのであれば、

一度は絶望し、

人生を投げ、

自分を悲観し、

憐れみ、

人を恨んだとしても

結局のところ、

それを受け入れることなしには、前に進むことはできない。

そう、原因の如何を問わず、

たとえ世のほぼすべての人から負の定義づけをされてしまうような状況に陥ったとしても、

である。

どんなに理不尽なことでも、

起こってしまったことは、

起こってしまったこと。

時計の針を戻すことは、できない。

絶望し、悲観し、

空を仰ぐ。

凍った心からは、

涙さえも出すことができない。

ただただ、その耐え難い痛みに、

耐える。

差し当たりの解決法とみえるものに、すがってみる。

でもそれは、さらなる罠であるかもしれない。

しばらくは、自分のことを自分で信頼することができなくなると思う。

とりあえずは、世の中における自分への定義づけを、

受け入れざるを得ないから。

人を恨み、世を恨み、自分を恨む。

でも、

そんな絶望の淵のような場所で、

はじめて得ることができるものもある。

それは、

誰がなんと言おうと、

自分を信じるよりほかない、

という強さだ。

疑いながらでも、信じるしかない。

人ではない。

それは、ほかならぬ"自分"だ。

この頼りなくも不安げな、

"自分"だ。

自分のなかに、神がいる。

答えは自分のなかにしかない。

誰も、自分にとっての答えを、教えてくれる人はいないのだ。

だから、そういう意味で、

私たちは自由だ。

絶対的に正しい、ただ一つの答えなんて、

ない。

自分を否定する人もいる。

称賛する人もいる。

時と場合によって、自分の状態によっても、

人は寄ってもこれば、

離れてもいく。

だから、そんなものは、基準にはならない、

ということを知る。

いつも、

自分のなかに、答えがある。

迷っても、わからなくなっても、

その迷っている、わからなくなっている、

その自分に向き合い続ければよい。


一見"不幸"な出来事によって、得るものがある。

"不幸な"出来事だから、気づくことができることがある。

もちろん、最中にある自分は、大変である。

肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ。

社会的な定義づけによる苦しみ。

どこにぶつけて良いかわからない怒り、

悲しみ。

得るはずだったもの。

多くのものを、失う。

でも、それに向き合い続けることによって、

自分というものを、

社会というものを、

人というものを、

意識の奥底から、

見つめることができるようになる。

一般的に言われている「正しいこと」を安易には信じることなく、

「自分の眼」で世の中を見ることができるようになる。

あきらめたら、そこで止まる。

世を恨み、人を恨んで、

人生を悲観したまま、

自分の成長は、止まってしまう。

不幸な出来事が浄化である、

というのは、

間違いではないと思う。

よほど辛いことでもなければ、

わたしたちは、

真実の眼が開くことはない。

理不尽を受けたはずなのに、

それがさらなる理不尽を招く。

同情されるならまだマシ、

差別の対象にさえなる。

人間の生きている世の中は、

どうしてこんなに矛盾だらけ、

悲しいことだらけなのだろう?

はじめて真に、心から、

神を求める。

治療法やら、補償やら、

正義やら、

自尊心の回復やら。

誰が悪いのか。

責任者出てこい!

そんな色々と闘いながら、

もがき苦しみながら、

しかし時間は、待ってくれない。

誰かが正しい答えを出してくれるのは、

よほど先になりそうだ。

であれば、

自分で背負うと決めて、

行動するよりほかないのだ。

間違うかもしれない、

間違った治療法を信じ、

さらに辛い状態になるかもしれない。

そんな道なき道を、

私も進んできた。

そして、ヨガに出会った。

自分がおかしくなんかなかった、

そのことが、わかった。

16年〜18年という月日がたっていた。

たくさんのものを失った。

しかし、

それが今、

多くの人の役に立つ、

一つの例となることができるかもしれない。

苦しみは、浄化だ。

人間の世界の話ではない。


わたしたちが、

たとえ絶望の最中にあったとしても、

光を忘れることがありませんように。

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