![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106434344/rectangle_large_type_2_dfac040746528f4333e9ff7c4f85ec75.png?width=800)
自分の中心にいる
「皆が着手しはじめた頃には、撤退しているくらいが望ましい」
ということを言っていたのは、ある資産家の人だったと思う。
その通りではないかと思う。
多くの人が世の流れに沿って、なんらかの言動をし始める。
世がそのような流れになってきたから、自分もそのような行動をとることにリスクがない。
むしろ、時流に乗ってないと、安全でない。
だから、突然なにかの物事を批判しはじめたりする。
抗議活動を行なって、メディア露出を考え、ちゃんとカメラ目線で映像に収まっていたりする。
「○○反対、ヤー!」(笑顔)
みたいな。
こういう人が大半なのだろうと思う。
この人達は、安全が確認されてからしか行動しない。
一般の人たちの少しだけ先を行く行動をとる。
それまでは、沈黙していた。
自分のなかに軸のある人たちが、苦しみながら必死で闘っていた期間、
彼らは、沈黙していた。
または、その人達にぶつかってストレス発散をしたり、
変な人扱いさえ、していた。
彼らにポリシーはない。
人に先んじて行動する人は、多くの人が世の時流に乗って同じ行動を取りはじめる頃にはすでに、
その物事の構造はもちろん、それに取り組み続ける上での問題点や知らない人からの便乗や攻撃など、
問題を、嫌というほど浴びてきている。
そこで、ハタと気づく。
「自分のことに集中するより、ほかない」
「人の選択は、人の選択である」と。
人を、おだてて、なだめて、すかしても、
その人が自分の思い通りに動いてくれない。
ということがあった時、
その相手の人は、なにかしらの"違和感"を自分のなかに感じているのではないか、と思う。
それはおそらく、「この人は自分のために、自分を動かしたがっている」
という直観だと思う。
相手にそのように見破られているとは知らないその人は、
自分の言葉に、行動に、それがありありと表現されていることに、
気づかない。
"目的"ありき。
相手の人の、その"目的"に乗ることが、自分にとって本当にメリットのあることなのか、
?マークが常に浮かんでいる。
思考でそれを"前向きに"もっていこうとしても、
自分のなかにある確固とした違和感、疑念のようなものは、拭えない。
そしてそれは後に、
なんらかの形で、「やっぱりね」という形で露見すると思う。
物事の背景や、構造が、見えるようになる。
だから、自分のなかの"違和感"には、
とことん忠実に従った方が良いと思う。
「自分のために人を動かしたい」
という動機は、誰しも持っているものなのかもしれない。
でも、やっぱりこの世の中は逆説的なことが多いなと思うのだけれど、
力が入り過ぎている人を、
人は警戒すると思う。
「頑張る」の語源は、「我を張る」だという。
今はこの言葉は、「なにかしらの自己犠牲を伴いながらも、周囲のために努力する」
のような意味合いを持つものとして、
肯定的、好意的に受け取られることが多いと思う。
でも実際には、
力を"入れる"ことよりも、力を"抜く"ことの方が、難しい。
身体の中心に、自分の中心になにか、"軸"のようなものがなければ、
力を"抜く"ことは、できないから。
中心に"軸"がなけれは、
肩とか頭とかに力が入る。
そこで「頑張る」、バランスを保とうとして、力まざるを得なくなる。
もちろん、人生においてなにを一番に大切にしたいかは、人によって違う。
100人いたなら、100通りの理があり、「正解」がある。
「この世は、質もレベルも異なる多様なダルマの集積体」という考えを、私も信じている。
ある一つのダルマが、質もレベルも異なる他のダルマを「理解」し尽くすことは、できない。
自分の練習が、一番キツい。
自分に向き合うことは、人を責めたり落としたりすることよりも、(人によっては)難しいことだと思う。
でも、それを常日頃やっている人、
そういう生き方が習慣となっている人は、
自分のなかに、軸がある。
そういう人の行動の起点は"自分"だし、
迷っても失敗してもうまく行っても、
それは全部、"自分"に返ってくる。
自分の"血肉"となる。
中心に力を集める。
自分のなかに、(自分にとっての)答えがある。
やっぱり、ヨガしよう。
気に入っていただけましたら、サポートいただくと嬉しいです(^_^)