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わたしたちのゴミゼロの世界 - わたしのばあい

1月にゼロウェイストの活動をしている「530week」に、「わたしのゴミゼロの世界」について寄稿しました。これは本文を一部加筆修正して転載したものです。ごみがない世界ってどんなんだろう。わたしのばあいは、こんなかんじ。

いま、わたしたちが立つ場所

人類は約700万年前に誕生し、類まれな繁栄をきわめている種のひとつだ。およそ250年前の産業革命をきっかけに、わたしたち人間の生活はもっとせわしなく、そして豊かになった。それ以来、石器時代のヒトが見たら仰天するようなスピードで、わたしたちは次々と技術革新を起こしてきた。ついに、人口増という意味でもグローバリゼーションという意味でも、地球はすっかり狭くなった。現代に生きるわたしたちは、モノをつくり、使い、そして捨てることで更に便利で豊かな生活を享受している。

ものを捨てるということ、すなわち「ごみ」を生み出すということは、わたしたち現代人の特性のひとつだ。商品のパッケージごみや壊れた家電製品から、農薬や堆肥の残渣、二酸化炭素、核のごみまで。それらが自然に分解されたり還元されるまで、この数百年ほどの人類の進歩の歴史なんてちっぽけに思えるくらいに、途方もない年月を要する。暮らしの発展とともに増え続けるごみを処理する能力は、限界に達しつつある。

ひるがえってほかの生き物を眺めてみると、彼らはごみを出さない。例えば鳥の糞も死骸も、すべて生態系の枠ぐみの中でぐるぐると循環して無駄になることがない。脊椎動物の一種であるわたしたちはあくまで生態系の一部を成しながら、本来の自然のルールから外れて、ずんずんと危うい道を歩いている。

人間が危うい道を突き進んでいることについて、ずいぶんと前から警鐘が鳴らされてきた。1960年代からレイチェル・カーソンの『沈黙の春』をはじめ人間活動による環境問題が議論の的となった。1980年から90年代にかけて、国連が主導して各国が環境問題について本格的に議論するようになり、2015年には「持続可能な開発目標(SDGs)」が設定され、世界中のさまざまな分野―政治レベルだけでなく、ビジネスや市民社会でも―で共有された。

60年以上前から人間活動による環境破壊は取り沙汰されていたのにもかかわらず、今もなお問題は続いている、というよりも、ずっと深刻化している。今や地球の資源は枯渇しつつあり、温室効果ガスの排出によって気候変動が加速している。そして、それに呼応するようにさまざまな側面で―北と南の間、既得権益者ともたざるものの間、世代の間―の格差は広がっている。つまり、わたしたちは今「持続不可能な」世界に生きている。どうしたらこの大きな問題を解決できるだろうか。いや、たとえすっかり解決することはできなくても、少しでも社会をよりよい方向に導くには、わたしたちには何ができるだろうか。

分断する世界観

大量生産・大量消費の社会に暮らすわたしたちが抱えるごみ問題の解決策の一つとして、「ゼロウェイスト」―ウェイスト(waste)すなわち「ごみ/無駄」 をゼロにする―という考え方・活動がある。わたしたちがごみをまったく出さず、完璧な自然循環の一部になるにはまだまだ非現実的だけど、できるだけモノを新しく買わずに既に持っているモノを修理して長く使い続けることや、包装資材の少ない商品を買うことはゼロウェイストの第一歩だ。そんな風にゼロウェイストな生活を送ろうと努力していると、ごみ問題の深刻さや無駄だらけの消費社会に辟易することがある。

「みんな、なんでゼロウェイストの大切さをわかってくれないのかな?」

一見もっともらしいこの思考には、実は落とし穴がある。というのも、ゼロウェイストに一所懸命なわたしは、他の人のもつ世界観をすっかり見落としているからだ。

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(出典: van Egmond & de Vries, 2011 を元に筆者作成)

この図は、人々がもつ世界観を四つの類型で示したものだ(van Egmond & de Vries, 2011)。もちろん、現実世界の人たちはこれほど単純化できないので、あくまでひとつのツールとして見てほしい。「世界のために、環境問題を解決したい」と思うあなたは、おそらく左上の「絶対的理想主義者」にあたる。一方で、「自分のまわりの生活が安定しているのが一番」と思うあなたは、右下の「主観的物質主義者」に該当するだろう。なにが言いたいかというと、人々がもつ世界観は絶対的なものではなく、「数あるうちの一つの世界の見方でしかない」ということだ。ゼロウェイストがどれだけ高尚な意味をもっていても、ピンと来ない人には理解しえないものなのだ。

人々の世界観はそう簡単には変わらないし、既存の伝統や仕組みも深く社会に根付いている。人は自分の価値観に合う人とつるみがちで、仲間同士でかたまることに安堵を覚える。しかし、異質なものを排除しつづけてしまうと、異なる価値観をもつ人との間に「分断」が起きてしまう。さらには「わかりあえない存在」として、憎みあったりさえする。トランプ前大統領が引き起こした現在の米国のすがたは、異なる価値観をもつ人々の分断のいい(悪い)例だ。環境問題は地球規模の危機に達しているのに、あいかわらず人々は分断し続けている。よくあるSFみたいに、エイリアンをやっつけるために人類が一丸となって立ち向かう、なんてことはない。

「この先、どうなるのかしら?人類は破滅の道を歩むの?」

そんなことは起きてほしくないな、とわたしは思う。個人の世界観や行動を変えるのが難しいなら、もっと大きな枠組みを変えられないかしら。「サステナブルな商品を使おう!」といったライフスタイルの選択の枠や個人の世界観の枠をこえて、何も考えずともルールに沿って行動できるような仕組みはどうやったらつくれるだろうか。


循環する社会を実現するために

わたしが思い描く「ゴミゼロの世界」は、自然の循環と人々の暮らしが両立した世界だ。そして、多様な価値観があることを認めながら、相克せずに共によりよい社会を目指すような世界だ。そのためには、現在の「持続不可能なシステム」そのものを変えていかないといけない。ここでいうシステムとは、人々の思想、行動を超えた大きな仕組みのようなものだ。具体的には、法律のようなルールであったり、確固たる社会規範であったりする。

例えば日本の分別の仕組みは、法律面やインフラ面で廃棄物処理のフローが確立していて、かつ社会規範としても「するべき」と人々に認識されているシステムのひとつだ。こうしたシステムは一朝一夕でつくられるものではなくて、多大な時間と政策レベルと草の根レベル両者の協力が求められる。最近注目されているサーキュラーエコノミー(循環型経済)への移行も、システムチェンジの一例だ。移行を促すためには、政策やビジネス慣行を抜本的に変えることはもちろん、市民社会レベルでの理解と自主的な活動もどちらも並行して進められていくのが鍵になる。

理念的な話はさておき、今ここにいる私は、循環する世界を実現するために何ができるだろうか。目下しているのは、買い物や生活のなかでごみをできるだけ出さないようにしながら、システムチェンジのために必要な知識とコネクションを大学で培っている。ごみを全く出さずに生活しているわけでも、国連で気候変動についてスピーチしているわけでもなくて、個人の範疇でつつましいことをしているに過ぎない。だけど、実現したい未来に向けて着実に準備をしている実感がある。学びの期間を終えたら、ビジネスや政策レベルでの循環型社会の実現に向けた働きかけを行っていきたい。

システムチェンジは数人の力で一夜にして起こるものではないからこそ、多くの人と理想像を共有して時間をかけて備えることが大事だ。今起きているパンデミックは、こうした準備の延期のための言い訳にならない。持続可能な社会を目指すための活動は、今からもう始めなきゃいけない。人間はしぶとい生き物だ。大飢饉だってスペイン風邪だって克服してきたし、このパンデミックも乗り越えるにちがいない。ただ、その乗り越えた先にある世界が尊厳をもって生きるに値するような環境でなければ、そもそも「持続可能にする」ことになんの意味があろうか。

60年前から提起されている課題は、相変わらずわたしたちの目の前に積み置かれている。まるでため込んできた夏休みの宿題みたいだ。今わたしたちは8月の最後の週にいる。今やるべきことをやろう。世界観の相違を乗り越えて、よりよいシステムを、ひいてはよりよい社会をつくるために。


参照文献
van Egmond, N.D., de Vries, H.J.M. (2011). Sustainability: The search for the integral worldview. Futures, 43, 853-867.


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