ムーンランド

光川がようやく現れたのは、9時を過ぎた頃だった。

光川は、ハーフパンツにスウェットを着て、大きめのリュックを背負ってやってきた。
ダーツバーに僕たちが着いたのは、7時半ごろだったから、かれこれ1時間半ほど待たされたことになる。
そのバーには、ダーツが5台ほど壁側にあって、真ん中にテーブルや椅子がまばらに置かれていた。僕は、学生の頃よく行っていた高田馬場にあるダーツバーを思い出していた。僕たちは、ハイボールを飲みながら、ダーツを3ゲームやって、飽き始めていたところだった。

「遅そいぞ」と竹下が文句を言うと、光川は今日は個室を取っていると言って、バーの店員になにやら合図をした。そのバーの店員は、髭を生やし、マッチョな体にピチピチのTシャツを着て、ハーフパンツにサンダルを履いていた。

「じゃあ、行こう」と行って、光川は僕たちにに立つように行った。
「え、個室なんてあるのか」
今さら面倒だなと思ったが、店員もこちらを見て待っている。

僕は、しかたなく立ち上がり、店員が案内される方向に行く。
ダーツ台の横を通り、少し奥まったところにウイスキーやウォッカの瓶が並んである棚があった。その奥に、赤いドアがあってポスターが貼ってある。そのポスターによれば、今月の22日にプロレスのイベントがあるらしい。店員と同じ顔の人が下の方に小さくのっていた。

その顔の下に、「ムーンWD」という名前が斜めに書かれていた。
なるほど、この男はムーンWDという名前のプロレスラーなのか。

そのドアを開けると、階段があって下ると、またさらに赤いドアがあった。
その赤いドアをあけて、ムーンWDは腕を伸ばしてどうぞと我々を招いた。
部屋に入ると、真ん中に卓球台があった。両側には木製の彫りの装飾がなさされた戸棚が一つずつ置かれていた。

壁にかかった象の彫刻が、その立派な鼻を天井に向かって突き出していた。
床にはペルシャ風の絨毯が敷され、高めの天井にはシャンデリア風の照明が吊る下げられていた。卓球台の奥には、四角いテーブルがあって、革張りのローチェアが四脚置かれていた。窓はなく、普段使われているような気配はないが、なんとなく清々しい場所だった。

「なんかすごいところ知ってるんだね」と僕が言うと、
光川は「あ、まぁたまたま見つけたんだ」と言った。そして、ムーンWDにグラスとミックスナッツ、そして水をオーダーした。
「おい、酒飲まないのかよ」と竹下が言うと、光川は、戸棚の引き出しを順番にあけて、ティーセットを取り出した。
「今日はこれで作るんだよ」
そういうと、ティーセットの器具をテーブルの上に順番に並べた。ティファール、大きなティーポット、ステンレス製の大きな茶こし、計量スプーン、マドラー。
そして、リュックからジップロックに入った茶色い粉のようなものを取り出した。
その茶色の粉を計量スプーンで正確に計り、ティーポットの中に入れる。
「何だそれ、お茶?」
鼻を近づけてみると、泥のような、というより泥そのものの匂いがした。
「え、これ飲むのか、泥じゃないか」と僕は言ったが、光川は「まあまあ」といって、手順を進める。
ムーンWDが水を持ってくると、それをティファールの中に入れて沸騰させて、注ぎ入れていく。そして、マドラーでゆっくりとかき混ぜる。光川の目はまっすぐ真剣だ。
3分ぐらい経ったころだろうか、光川はピタリと手を止め、ポットの蓋をして、グラスに茶漉しをセットする。
そこに、ゆっくりお湯をそそぎ入れていく。
竹下はすでに飽きたらしく、携帯で何かゲームをやっている。
僕は、泥のあやしい香りを嗅ぎながら、光川の動作を眺める。光川の動作は、茶道の動作のように無駄がない。
光川は、お茶が入ったカップを私と竹下に渡した。茶色く濁っている。鼻を近づけるとやはり泥の香りがした。
「やっぱり泥じゃないか」と僕は言った。
「まあ、飲んでみなよ」
「でもやっぱり・・・」
と僕が言っている間に、竹下がぐいっと飲んだ。
私もしかたなく口を近づける。
それは予想通り、泥の味がした。
ただなんというか、純粋な泥の味という感じで、不思議ともう一口、また一飲みと進んでしまい、結局飲みきってしまった。
光川は、また同じ工程で茶を準備して、竹下と僕についだ。
このお茶は一体なんなのか、この不思議な個室はなんなのか、聞いても光川からは明確な答えが聞けなかったし、途中からはまあどうでもいいかという気分になった。
何杯飲んだころだろう、ふと見上げるとさっきまであった目線の先にあった卓球台が下に下がっているように見えた。

「あれ、卓球台下がってないか」と僕が言うと、
「たしかに・・・」
「いや、違う、俺たちが浮いているんだ!」
と竹下が言った。
そんなバカなことがあるものかと、自分の足元を見たら、たしかに床から浮いていた。
いや、そんなことはない、あるはずがない。

首を左右に10回ぐらい振って、また足元を見た。
やはり、足は浮いていた。
そんなばかなことがあるものか、これは夢かもしれない、そう思って足の親指に力を入れた。僕は夢だとわかる時、いつもこうするのだ。

しかし夢からは覚めることはなかった。
「二人とも落ち着いて」そう光川が言って、みぞおちあたりに両手を当てた。
「僕たちは息を吸いすぎてしまっているんだよ、息を吐けば元に戻れるさ。二人ともみぞおちに手を当ててみて」
私たちは言う通りにした。
「軽く吸って、そして5回吐くんだ」
光川は軽く鼻から吸って、口で「フッフッフッフッフッ」と吐いた。
すると私たちより幾分床に近づいた。

「はいじゃあ、吸って、フッフッフッフッフッ、
吸って、フッフッフッフッフッ、
吸って、フッフッフッフッフッ・・」
僕たちは、光川の号令に合わせて呼吸を続けた。
少しずつ卓球台は上がっていき、僕たちは床に近づいていった。
そして、何回目かのフッフッフッフッフッをやったときに、完全に我々は「着陸」した。
私も竹下も呆然としていた。
一体何があったというのだろう。

その時、赤い色のドアが空いた。

ムーンWDが現れて、こう言った。
「お客さま、そろそろ閉店のお時間でございます。」

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