エス

ショートストーリー(村上春樹風)を書いてみました。ほぼ実話です。

-----

渡された合鍵をポケットに入れて、今夜も同じマンションに住んでいるSに会いに行く。
ドアをあけるといつもSは玄関まで出迎えに来る。

私がSの部屋に行くのは、おおよそ夜の10時から11時の間、たいてい食事を済ませた後だ。Sの部屋に入ると、私は上着を脱ぎ、軽くたたんでソファの上に置く。

それから、やかんに水をいれて、お湯を沸かす。カモミールのティーパックをマグカップに入れて、そこにお湯をそそぎ入れる。

それがちょうどいい濃さになったとき(それはおおよそ3分である)に、マグカップから取り出す。Sが使っている大きなカップに水を入れて、Sに渡す。Sは茶を飲まない。

お腹が空いているときには、Sは常備しているクッキーや冷蔵庫にあるものをほおばる。
私はそれらは食べない。

Sとは食べ物の趣向が違うし、そもそも食事を済ませているから特に食べたいとも思わないからだ。

Sが住んでいる部屋は、私が住んでいる部屋と少しレイアウトが違う。それでも、キッチンのガス台とか、洗面所やお風呂は全く一緒の作りで、不思議な感じがする。窓際には、観葉植物がたくさん置いてあって、その前にベッドがある。

私たちは、一緒にいる時間、ほとんど言葉を交わさない。Sがどう感じているかは分からないが、それが私には心地がいいのだ。私はなんといっても、つまり、うまく言えないけれど、それが私自身なのだ。

私はカモミールティを飲み、Sは水を飲み、目線をかわす。Sの目は不自然なくらい、すきとおっていて、吸い込まれてしまいそうになる。

時折、Sは私が読んでいる本に関心を示して、ソファーの隣に座って、肩を寄せあって読むこともあった。Sはそのまま眠り込んでしまうこともあった。私はその寝息を聞きながら、本を読んだ。また、ある夜はソファーに寝転んでいる私の背中を、Sはマッサージしてくれたりもした。

そんな風に平和な夜が続いたが、異変が起きたのは、5日目の夜だった。

いつも通り、私はカモミールティーをソファーで飲んでいる時だった。
ベッドの上で何気なく外を眺めていたSが、いきなり猛スピードで玄関まで走って行ったのだ。

私はあまりの勢いに驚き、ソファーから転げ落ちそうになった。

「なに、どうしたの?!」と私は叫んだが、返事はなく、ベッドの方までさらに速いスピードで戻ってきた。

そして、また、猛スピードで走り出した。

「やめてーーー!!!」

それでもSは止まることなく、部屋中を猛スピードで走り続けた。

私は狂気を感じた。
このまま逃げ出したいと思った。
しかし、震える足がなかなか動かない。
どうしよう、どうしよう、とパニックになった。とっさに親友に電話をしようとジーパンのポケットに入っていたiPhoneを取り出した。

親友がこの事態を理解してくれるかは分からない。それでも誰かに助けを求めなければ呼吸が止まりそうだった。

Lineを開き電話をかけようとしたその時、Sはゆっくり私の方に戻ってきて、ニヤっとした。

「なんだったの?!?!どうしてそんなことするの?!?!」

Sは、特に反応することなく、大きなカップで水をごくりと飲んだ。
まるで、ただ運動しただけという感じだった。

私は途方にくれて、腰が抜けそうだったけれど、結構遅い時間だったので、そのまま自分の部屋に帰ることにした。

その次の日の夜に、Sの同居人は旅行から帰ってきた。

彼女は、旅先で買った美味しいワインがあるからと言って、部屋に呼んでくれた。私はクックパッドを見ながらパエリア風なものを作って持って行った。

Sは、何事もなかったかのように平然とソファに座っていた。
私とはほとんど目も合わせず、いつも通り大きなカップで水を飲みながら、好きなものだけを食べていた。

私も何事もなかったかのように、ワインを飲み、ご飯を食べ、礼を言い、自分の部屋に戻ってお湯を沸かした。

お湯を沸かしている間、Sのことを思った。

マグカップに、カモミールのティーパックを入れて、お湯を注ぎ入れた。

もうどうなったっていい。

ただ、一つだけ言いたい。

完璧なタイミングでのティーパック引き上げは、存在しない。
完璧な絶望が存在しないようにね。

(終)

*この話は、近所に住んでいる友人が飼っている猫を、友人の旅行中世話をした時の体験を元にに作成されました。
猫の名前は、しーちゃんといいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?