不完全さは劇的なピアニッシモ?#2『べてるの家の非援助論』

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べてるの家とは、1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点です。べてるの家は、有限会社福祉 ショップべてる、社会福祉法人浦河べてるの家、NPO法人セルフサポートセンター浦河などの活動があり、総体として「べてる」と呼ばれています。

とある書き出しでは、「僕は、精神分裂病です。僕の夢は、とにかく病気になることでした」から始まる。病気になって「頑張り」から降りられた、喧嘩の絶えなかった家族が僕が病気になったおかげで仲良くなった等が報告されている。別の章では、統合失調症の当事者が、特異な行動パターンを身につけたと内省し、それらの行動パターンが現れやすくなる前兆をも仲間と共に客観的に分析していた。

『問題だらけで不安で、多くの葛藤をかかえながら、にもかかわらず、ユーモアにあふれていた。人と競い合って上っていく生き方から、降りていく生き方へ。』

入れ歯がなくて、電話口でよく内容が聞き取ってもらえずつい怒ったら、契約を中断されたなど、おもしろエピソード満載である。その出来事を契機に、自分達で昆布を仕入れて、元精神病棟患者が働く地元の企業となった。年商1億円のビジネスへと変貌していく(本に書かれている当時のデータ)のだからすごい。

●私が思ったこと

私は、この本を読んで、そこはかとない不安が和らいだことを覚えている。松岡正剛さんの本「フラジャイル 弱さからの脱却」では、『弱さというのは、強さからの一方的な縮退ではない。劇的なピアニッシモな現象』であり、弱小野球チームを応援したり、欠けだらけの主人公の物語を好むのは、情景や共鳴をもたらすからと解説していた。

そして、注目したいのは、援助者が、その当事者と自分を重ねていること。精神障害者の抱える課題は、援助者にも起こりうるもので、地続きであると知っている。

例えば、べてるでは、当事者のみならず、健常者もちゃんと自分の「病名」を持っているそうだ。私も自分に「病名」が付けるとすれば、「0か100かで振りきって考えてしまう、1つのことに熱中すると周りのことに配慮できなくなる、不器用なアダルトチルドレン」だと思う。

話は飛ぶが、私の尊敬する友人のWelgeeという団体は、難民として日本へ逃れてきた若者にその人の才能を最大限発揮する就労のマッチングをしていらっしゃる。

隣人がたまたま難民という境遇を経験していると捉え、自然に手を差し伸べている。友達感覚をとても大事にしているように思う。

『困りごとはあってもいい、弱さもあってよい、ティリッヒという哲学者は、predicament、すなわち、人には克服してはならない苦悩や苦労があるといった。精神障害者の社会復帰というときには、何もかもを克服したり、改善してしまおうとするわけだが、精神障害というつらい体験をした人であろうがなかろうが一生になっておかなければならない苦労はある。』


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