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【新社会人】問い続けて見つけた、私の生きる道。私の夢。

今日は2021年3月31日。私は明日から社会人の仲間入りをする。

家族と離れた寂しさはあるが、不安という気持ちは一切なく、それより高揚感とワクワクと楽しみ、よりよい社会をつくるんだ。という気持ちで満ち溢れている。

だからこそ、今の気持ちと私の夢をここに言葉にして残しておこうと思う。

1私の高校時代

私のこれまでの22年間で一番大きな分岐点だったのは、間違いなく高校の3年間。

国際交流に興味を持った私は、京都国際科という学科に通い高校3年間を過ごした。

英語や語学で世界を広げるだけではなく、世界を知り、自分の世界を広げる授業があったり、田舎の学校だったけど、海外研修や留学に行く機会も多く、海外の学生と関わる機会にも恵まれた。

クラスには留学生がいたり、ホストファミリーとして色んな国籍の人と生活したり。

ノーマライゼーションや、ダイバーシティという言葉が必要ないぐらい、個性豊かな、英語が通じなくても、文化が違っても一緒に過ごす、そんな環境に自然といた。

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私の初めての海外は高校の研修旅行で行ったシンガポールとマレーシア。

日本とは違い、多民族国家でインド系、マレー系、中華系の民族やルーツの人がいて、一つの国に色んな言語や宗教、アイデンティティが溢れていた。それでも互いに認め、共生している国だった。

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世界には78億人の人がいて、196の国があり、その中に数えきれない程のアイデンティティや生き方が存在する。その違いを認め、楽しみ、共に同じ世界で生きる。それが私の考える豊かな社会。

そんなシンガポールのような多様な共生社会が世界中で実現したら、世界はもっと豊かでいい社会になる。そんな社会を創りたい。高校3年間の学びから私はそんな事を思った。

そんな中、高校2年生の時私はフィリピンのスラムへ行き、ボランティア活動に参加した。そこで自分よりも小さな子供達が学校にも行けず、スラムの中で生活している現状を目の当たりにした。

それと同時に、ボランティアや援助ではこの問題は解決しないという事に気付いた。

その時、何も出来ない自分の無力さを感じながら「なんとしてもこの貧困問題を解決するんだ」と心に誓った。

そんな志を持ち、もっと持続的に貧困問題を解決す方法を見つける為、大学でもっと専門的な分野で学ぼうと思い、経済学部に進んだ。

2 大学生活

大学に入学してからは、「貧困問題を解決する」という目標を軸に行動した。

そして、貧困問題や社会問題を持続的に解決するためにはソーシャルビジネス(社会問題の解決を目的とする事業やビジネス)が1番いい方法だと考えにたどり着いて、ビジネスを学ぶところから始めた。


社会問題を解決する手段や方法、道はいくらでもある。でもそこで自分がどういった役割で、どういう立場で関わり、自分は何が向いてるのか。起業をという道を選ぶのか、それとも今ある組織の価値を最大化することで貢献するのか。

そこまで考えて答えを出さないと、いつまでも悶々としたままで、漠然とした夢で終わってしまうという事に気付いた。

「仕事」や「働く事」は夢への手段でしかなく、行きたい会社に行く事、内定を取ることがゴールではない。だから、その答えを、自分の進むべき道を模索して悩んだ。

「どんな人生を送りたいのか。」
「どんな社会を作りたいのか。」
「そこで自分がどんな役割で、どんな関わりかたをしたいのか。」
「そもそも、なんで貧困問題を解決したいのか。」

そんなことを考え続けた。

3 身近なSOSに気づき、そして見えてきた原点

そんな中ことを考えていた時、縁あって特別支援学校のスクールサポーターと、地元のお年寄りの方と関わるデイサービスでの仕事に声をかけて頂いた。何か、私の直感でそこにヒントがあるかもしれないとすぐにイエスの返事をして働かせてもらう事にした。

ビジネスではなく、今まで関わった事のなかった福祉の世界。
今まで目を向けてこなかった日本国内の社会問題。

そこでの出会い、支援学校で出会った子供達、そしてその経験が、私の人生を豊かにしてくれた。私の中から「障がい者」という言葉や「障がい」という概念が消えた。

それと同時に知った、

日本国内に、そして近くに、こんなにも障がいと生きる人が社会と繋がりを持てず、生きづらさを抱えて生きている人がいること。

人生に希望をもてずに生きている人がいること。

失われなくてもいい命が、身近で奪われていること。

私は、この社会に障がい者なんていないと本気で思っているし、「障がい」やその「生きづらさ」をつくっているのは社会で、誰一人悪くない。

私は遠くを見て、気付いていなかった、近くに溢れているSOSを無視することは出来なかった。

フィリピンで貧困を目の当たりにした時「なぜ、貧困問題を解決したい」と思ったのか、子供達と過ごす中で見えてきた。

それは、生まれた環境、国や文化、言語、宗教、そんな事関係なく、真の多様な共生社会を作ることで、誰もが生きやすい社会を作りたい。沢山紆余曲折したけど、この想いが私のブレなかったことだった。

4 好きよりも、自分の武器を見つけること

前までの私は、好きなことを仕事にしたいという考えてた。ファッションが好きだから、インドが好きだから、「インドで自分のブランドを作って、貧困地域に雇用を作ろう」なんて思ってた。でも、周りを見れば自分以上にファッションに情熱を注いでる人がいて、もう既に地球上に必要以上に服が溢れていて。自分の好きな事は、他の人への自分のエゴでしかない。

自分の好きな事、そして社会に必要な事、そして相手が求めている事。その3つが交わった事。そして、自分にしかない、誰にも負けない武器ってなんだろう。って考えた。

毎日、支援学校の子供達や、私の何倍も人生を生きたデイサービスの利用者さんに、寄り添い、本気で向き合い、自分の存在を認めてもらえた時、

この仕事をしながら、私は人が好きで、直接人と関わり、寄り添って向き合う事、誰かのために、そして誰かの人生をいい方向に導く事が得意なのかもしれない。そうやって、働いている時1番ワクワクしていること。これが私の誰にも負けない武器なんだと気付いた。

モノやサービスだけではなく、誰かの生活や人生に寄り添いサポートすることで「人」が輝き、「人」が輝く事で、この社会は、日本はもっと豊かになる。そんな方法もある事を、私は知った。

5 問い続けて見つけた、私の生きる道

障害と生きる人が輝き、障がいという言葉をなくす。そして、真の多様な社会をつくる。

私が出会ったような特別支援学校に通う子供達が、学校から社会に出た時に希望を失わないように。

「福祉」の人に寄り添う優しさ、「ビジネス」の可能性
その相乗効果で障がいを持ってる人の可能性を広げたい。

そんな夢をもって、

同じ想いを持った誰よりも熱い社長、そしてみんなが同じ方向を向いた会社に導かれるように出会った。

"社会を変える"事は簡単な事ではない。軽く言っているわけでもない。でもこの会社でなら、この人たちとなら社会は変わる。変えられる。と私は本気で思っている。

そんな事で、私は明日から社会人になる。

このつくりたい未来がある限り、私はどんなに辛い事があっても、どんなにやりたくない事でも、誰よりも素直に、がむしゃらに、自分の決めた道を進んでいこうと思う。

2021・3・31

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