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本物のキュービックジルコニア

自分をキュービックジルコニアだと思うことにしたら、精神が安定した話をする。

キュービックジルコニアという鉱石がある。
見た目がダイヤモンドに似ているため、ダイヤの模造品として人工的に生産される物質である。
精巧なものは、専門家でないとダイヤと区別がつかないと言われる。

「本物の」ダイヤという言葉遣いをするときの「本物」とは一体何なんだろう、と疑問に思ったことがある。専門家でないと区別がつかない精巧なキュービックジルコニアは、なぜ「偽物の」ダイヤと呼ばれて価値が劣るとされるのだろう?きらきらと輝くという機能は本物のはずなのに!
子供の時の自分は、「本物」というのは「より価値がある」というくらいの言葉であろうと推察した。
今思えば、機能ではなく、モノの歴史、つまりは物語に値段がついていたのだと思う。

自分はいったい何者なのだろう、とよく悩んでいた。
この身はダイヤモンドではなく、ゴールドでもないだろう。ならば鉄だろうか?
鉄であるならば適切に加工すれば歯車になれるはずだ。できれば社会の歯車になりたい。
なめらかに動く世界を一方的に見つめて、誰にも気にされないでいたい。

その目論見は時々成功し、時々失敗した。
ひとが歯車の自分を見つめ、世界を止めてしまうのだ。
自分にとって、ものの動きが止まることは悪だった。

自分のエゴで世界を見つめることを望んで、世界から見返されたときに腹を立てる。めちゃくちゃだ。自分にはそんな権利はない。
自分は歯車にすらなれない、鉄くずなのかもしれない。
自己嫌悪が意味不明な理由で積み上がっていった。
これまでの人生で一度も死ななかったのは、純粋に怠惰のおかげだったと思う。

最近、自分はキュービックジルコニアなのかもしれない、という意識が湧いている。
適切に加工すると光を反射してたまにきらきらと光る存在。
ひとから生み出されたありふれた創造物。

何かの装飾品になることは嫌だったが、元来そういう性質だったとしたらあきらめもつく。
誰かを眼差したぶん眼差されることも受け入れなくてはならない。

今は随分スッキリした気持ちで人生を送ることができるようになっている。
ふとキュービックジルコニアの石言葉を調べたら、「平和・苦しみからの解放」と書いてあった。
そんな出来すぎた話があるかよ、と少し笑ってしまった。

何にせよ、平和を愛するときが来たのかもしれない。
それはすさんでいた過去の自分を否定するものではなく、争いを好むこころを持ったまま平和を愛する気持ちであること、その一点においては正確に、気に留めておかねばならない。

人間の資本が増えます。よろしくお願いします。