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210405 ここに書く意味

以前は何か文章を書いてみても、うまく表現できていない気がしてすぐに消したくなったり、書くこと自体が嫌になったりして全然長続きしなかった。それが去年の夏の初め頃からようやく怖がらずに書けるようになって、最初はただただそのことが嬉しくて、とにかく思いつくままに書いていた。

好きなものや素敵だと思ったことについては、十分迷いなく書けるようになったと思う。数年前と比べれば、これは私にとって一つの成長だと言える。自分が好きなことを同じように好きだと言ってくれる人がいれば、それは偶然が運んでくれためぐり合わせだと思って素直に喜びたいけれど、本来反応の有無はそれほど重要なことではないはずだ。ここが本質的に誰かにとっての「創造の場」を目指すのであれば、いずれは閲覧と共感を数字で示すことの意義が廃れてゆけばいいのになと思う。

私は、「誰が読もうが読むまいがどうでもいいけれど、これはどうしても自分にとって書かなければならないことだった」という圧が伝わってくる文章が好きだ。そういう文章は、書き方の方法論に照らすと体裁や文体が無茶苦茶だったとしても、十分人に読ませる力を持っている。見ず知らずの物書きを生業としない人の、そんな文章に触れたい。オンラインで発信されている情報を得ることの醍醐味は、ここにあると思っている(話が逸れた)。

他方で、気持ちが不安定になっているとき、私はどうしても不穏な文章を書いてしまいがちだ。ここ最近もそうだった。自分でも嫌になるような文章をなぜあえて公開する必要があるのか。これについては、これまでも時折迷うことがあった。やっとネガティブモードから抜け出して平常心を取り戻しつつあるので、改めて日記を公開する意味について考え直してみた。これから先迷ったときにも、ここに立ち返って思い出したり考えを修正したりしながら、書き方を見直していきたい。

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端的に言えば、私にとって日記を公開する意味は、他者に伝達可能な言葉遣いで自分を表現する練習をすることにあると思う。これについてもう少し具体的に以下三点に分けて内容を確認してみる。

1.できるだけ客観的な言葉を用いて出来事と感情を捉える訓練ができる
これはあくまでも自分の中での比較の話になる。公開している日記も限りなく私的な言葉の使い方をしているという自覚はある。それでも、自分だけが読む日記だとさらに訳のわからない文章が野放図のように広がってしまい、読み返すと自分でも本当に理解不能だったりする。公開するとなれば、一応は筋道の通った文章にしようと言葉選びや順序立てに配慮することになるので、この点で非公開にはない利点があると言える。

2.「どうせ伝わらない」というネガティブな固定観念を和らげられる
上記と重なる部分もあるけれど、基本的に自分の中で渦巻いている感情の表出に手こずることが多い。自分の感じている(考えている)ことを誰かに話してみても、うまく伝えられた気がしない。そうした経験の蓄積からか、「どうせ伝わらないから黙っておこう。一人で映画や音楽に触れてた方が楽しいし」という発想に逃げてしまいやすい。そうやって逃げている限り、当然コミュニケーションにつきまとう様々な困難を克服することはできなくなってしまう。そして私は今、逃げたままではいたくないと思っている。文章だから間接的ではあるけれど、言葉を尽くして誰かが見ても読解可能な書き方をするように努力することは、私にとってはコミュニケーションの練習でもあるのだ。

3.気持ちが不安定になったときに早めに気づいて自制心を働かせることができる
綺麗事だらけの日記では意味がないから感情の波は自然にそのまま書き表すようにしているけれど、いつもどの文章も、冷静に必要なことだけを書いているつもりだ。でも、実際に書いたことを思い返すと、時には明らかにネガティブな感情に引きずられて過度に自己否定的な書き方をしていたことに気付かされる。定期的に痛々しいことを書いてしまうのは、しょうがないことなんだと思う。自分でも度々嫌になるけれど、それも含めて付き合ってあげられるのは自分しかいない。

他方で、誰かの目に入るかもしれないという状況に身を置くことで、読んで気分の悪くなるような文章はできるだけ書きたくないという心理が生まれる。(単純に、自分を励ますために明るいことだけを書いていたいという気持ちもある。何も落ち込みたくて落ち込んでいるわけではないのだから。)そうして人の目を意識すると、崩れかけた気持ちをいち早く立て直そうとがんばることができる。「気持ち」は、それに気づいて観察することが重要なのであって、流されたり支配されたりすることを許す必要はないのだ。

加えて、不安定から安定に戻る過程を記録すると、不調のパターンをつかんだり将来の似たような状況に備えたりすることができるようになる。私は自分一人だとこうした作業をこなすことが難しくなってしまうので、ここでも公開に意味が生じることになる。

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 以上が、今の自分が考える日記を公開する意味だ。こうして言葉にしてみると、改めてこの場所があることに私はすごく助けられているのだなと感じた。「人の目を意識すると、日記なのに自由に書けなくなるのでは?」という懸念もあった。たしかにこれまでにも見たように、公開の有無によって日記の書き方はかなり変わってくると思う。だけど、非公開であれば「本当の自分」をありのままに表現できるのかというと、必ずしもそうではないだろう。そもそも「本当の自分」なんてものは存在しないだろうし、各々の場面で各々の顔を持つ、そのすべてが自分の一部だ。そして、今の私はこの場所に現れ出る自分の姿を材料にして、前に進む力を捻出したいと思っている。いつかクローズドな空間に戻りたくなったら、そうすればいい。とりあえず今は、ここで書こう。