210126 再考:ゲシュタルトの祈り

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

「ゲシュタルトの祈り」と呼ばれるこの詩は、ゲシュタルト療法の創始者であるパールズがその療法の思想を盛り込んで作ったものであり、彼はこの詩をワークショップで朗読することを好んだそうだ。(200610 〈メモ〉ゲシュタルトの祈り

2年ほど前にこの詩に出会い、私はとても感銘を受けた。この詩は健全な対人関係の基本となる考え方を最も端的によく表していると思い、そのときの私は明快な指針を得た力強さのようなものまで感じていた。

でも、この詩がそれほど心に響いたのは、ここで表現されていることとは反対の現実を生きてきた証ではないかと、今更ながら気づかされた。この詩は、自分と他者との間における境界線の引き方を教えてくれている。そうした境界を言葉として明示的な形で意識し、自分に言い聞かせる必要があるのは、放っておくと境界が見えなくなるという現実があるからだ。だから、「他者との境界を意識せよ」と促す詩に頼り、支えられなければならないのは、なんだか少し悲しいことのように思えてきた。加えて、(最後の一文を拡大解釈して)自分の孤独癖を容認するための免罪符としてこの詩を利用していたのではないかという疑いも生じ、改めてこの詩について考え直す気になった。

境界の薄さはどのような形で自覚されるのか。例えば、メディアを通じて意見を発する人、普段会話をする身近な人とを問わず、私は誰のどんな話を聞いても、大抵その人の意見は「(ある面においては)正しいな」と思ってしまう。ただの八方美人と言えばそれまでだけど、その人が何を言わんとしているかを正確に聞き取ろうとすればするほど、結局最後は「一理あるな、言いたいことは分かるな」というところに落ち着いてしまう。もちろん、すべての意見に共感できるわけではないものの、「意見する人の立場、背景、事情、その他諸々を踏まえれば、そのような意見を持つのも納得できる」と思うに至りやすい。私の理解力が特別優れているわけではなく、恐らく表面的な言葉だけでは読み取れなかったニュアンスをある種恣意的な想像上の仮定で補うことによって、理解した「つもり」になっているだけなのだと思う。いずれにせよ、主観的には「分かるような気」がしているのだ。

言うまでもなく、こうした態度にはいくつかの問題がある。例えば、意見が対立する場面で私自身の立場の表明を迫られると、答えに窮し、中途半端でどっちつかずな態度をとることになるだろう。また、誰の話に対しても「分かる気がする」と思っていると、そのうち自分が何を考えているのか分からなくなる。だから、できるだけ頭が混乱しないようにするため、様々な意見が飛び交うSNS等の情報からは自然と距離を置くようになったし、人間関係は限りなく狭くなっていった。私が一人でいる時間を好む理由の大半も、恐らくここにある。色々な考えがある中で、どこからどこまでが自分の考えなのか、その範囲と感触を確かめるために、こうして日記を書く必要も出てくるのだろう。

こうした傾向は性格上変えようのない部分もあるだろうし、人との関わりを適度にやり過ごしてゆくためにも、ある程度境界を引く努力は必要だと思う。それに、同調圧力や馴れ合いの文化は苦手なので、個人の尊重という意味でも単純にこの詩が好きだ。今もこれからも、ゲシュタルトの祈りは私を助けてくれるだろう。その一方で、現在の私の心理的な環境は、ほとんど「自分だけの城に立て籠もっている」状態に近く、その極端さは変えてゆく必要があると感じているのも事実だ。

今はただでさえ人との接触を避けなければならない時期だし、正直なところ、何から手を付ければいいのか分からない。でも、これを書けば少なくとも今自覚している課題は意識化できるから、次の行動につなげやすくなるのではないかと思っている。書いてしまいさえすれば、何かしら頭に残って今後の言動に影響を及ぼすことになる。こうして私自身の流されやすさを逆手にとって、利用していけばいいのだと思う。今できることから、少しずつがんばってみよう。