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210301 人に相談すること

相談機関を通じて、今自分が抱えている悩みを聴いていただく機会を得た。家族でも友人でもない第三者の方に悩みを打ち明けて、自分の考えを整理するためのお手伝いをしてもらう。いわゆる、カウンセリングだ。数年前にも何度か似たような相談の場を利用したことはあったけれど、今回かなり久しぶりに体験することになった。そして、改めて人に相談することって大事だなと痛感したので、あれこれ考えたことをここに書き留めておきたいと思う。

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1.一人で過去を振り返ることの難しさ

ここ数年、できるだけ(特に古い)過去を振り返らないようにしてきた。自分にとっては無意味なことだと感じたからだ。やり方や状況次第で、過去の振り返りが有意義なものになりうることは否定しない。ただ単純に私の場合、自分一人で過去を振り返って反省しようとしても、あまりうまくいかなかったのだ。私は過去の記憶に引きずられやすいのに、過去の反省を現在に活かすのは得意ではない。過去に対しては無限の解釈が可能な気がして収拾がつかなくなったり、過度に感傷的になってしまったり、過去の振り返りによって得るものよりも害になることの方が多いという実感があった。そして何より、どうあがいても過去は変えられない。だから、できるだけ現在に焦点を合わせて、必要以上に過去のことを考えないようにしてきた。自分の場合は、そうする方が良いのだと思ってきた。

しかし、当然のことながらカウンセリングでは、悩みに関わることは何であれ、過去を含めて様々な質問を受けることになる。今回の相談の中でも普段は思い返すことのない過去に触れられたことによって、過去に対する現在の認識をできるだけ正確に言語化しようと、ごく自然に努力することになった。不思議なもので(相手の方の手腕でもある)対話を通じて過去を振り返ると、一人では上手に消化できていなかったことも少しは喉を通るようになったと感じられた。言い換えると、現在に活かす形で冷静に過去を振り返るために、私は他者を必要としていたのだと言える。

2.悩みを打ち明けることに対する苦手意識

例えば、今回の相談を通じて、私は以下のような過去を引きずっていたことに気付き、それにより現在の問題との向き合い方を改め、解決の緒を掴むためのヒントを得られた気がしている。

私は元々、自分の悩みを人に相談するのが苦手な方だ。できるだけ自分一人で考えて解決しようとする思考の癖と、人に相談を持ちかけることに対する遠慮意識と、その両方が相まって結局一人で考え込んでしまうことが多い。これらの傾向は、性格や生育環境などの諸々の要因が重なって形成されてきたものだと思う。ただ、この傾向に拍車をかけたと思われる経験が過去の中に見いだせることを、今回認識させられた。

社会人になりたての頃、私は色々なことに行き詰まってしまい、今にも潰れてしまいそうな気持ちを抱えて途方に暮れていた。当時、最も信頼を寄せて身近に感じていた人が二人いる。(ここでは仮にAさん、Bさんと呼ぶ。)私はあれこれ悩んだ末、二人に相談してみることにした。

まずAさんと話をする場を設けて、しどろもどろになりながらも、仕事の状況やそれについて自分が深く悩んでいることなどについて打ち明けた。それに対してAさんから返ってきたのは、「まあ、これからどうするかは自分で決めるしかないんじゃない?」という答えだった。また別の場面で、Bさんに自分の仕事について話す機会を得た。私にとってはかなりショッキングだった会社の実情と弱りきっていた自分の心情を吐露したとき、Bさんはただ一言、「ふーん」と答えた。

どちらの場面でも、未熟な私は「それは大変だね、つらいよね」という反応を期待していたのだと思う。当時はそんな本音を自覚する余裕すらなかったけれど、二人ともに期待とは異なる反応を示されて、ただただ悲しいと感じたことは覚えている。AさんもBさんも、別に冷淡な人というわけではない。当時の二人にもそれぞれの生活や悩みがあっただろうし、各々の場面では上記のように回答するのが一番妥当だったのかもしれない。それに、そのときの私が聞き逃しただけで、大事なアドバイスをしてくれていた可能性もある。

過去の記憶には多くの歪みがあると思うし、一つの経験のみによって何かを説明しようとするのはあまりに強引すぎる。頭で考えれば別に大したことのない一場面だということはよくわかっていて、諸々の状況を加味して十分に納得して受け入れてきたつもりだった。それでも、心のどこかで「最も親しみを感じていた人に意を決して打ち明けた悩みを一蹴されてしまった悲しみ」としての記憶が燻っていて、それが現在の自分の態度にも影響を及ぼしている可能性があるのではないか、と考えさせられた。

ともかくここで書き残しておきたかったのは、上記の例のように、他者とのコミュニケーションを通じて過去を振り返ると、自分でも気づいていなかった未消化の過去を解釈し直すことができ、それが現在に良い変化をもたらす場合もあるのではないか、ということだ。自分一人では再解釈は難しかったと思う。そもそも、この記憶にとらわれているという自覚すらなかったからだ。この意味においても、やはり相談は大事だという実感が強まることになった。

3.聴くことのできる人になりたい

言うまでもなく、私はAさんやBさんの態度を非難したくて上記のエピソードを振り返ったわけではない。それに、別の場面では私自身が誰かにとってのAさんやBさんであった可能性も十分にあると思う。

日常の何気ない会話から真剣な話し合いの場に至るまで、私たちは様々なコミュニケーションの中でたくさんの言葉や(言外の)態度、サインを交わし合っている。誰かの些細な一言に何年も苦しめられることもあれば、それとは逆に、ある人とほんの一瞬分かち合った時間がずっと心の支えとなって自分を励まし続けてくれることもある。

私が人に悩みを打ち明けるのを躊躇してしまうのは、「自分の考えていること・感じていることは、きっとうまく伝わらない」という弱気な心が先行している証なのかもしれない。私はこれまで、誰かに自分の思いが伝わった(あるいは伝わらなかった)と感じる経験が自分自身に与える影響の大きさを実感してきた。だからこそ、私が誰かの悩みや考えに触れる立場に立たされたとき、その人の言葉に耳を傾けることのできる人でありたいと思う。

職業として心理の世界を志すというよりも、まずは身近なところから実践していきたい。将来心理職に就く可能性まで否定したくはないけれど、今は生活の中で具体的な実践の場を見いだすことの方が重要だと思うからだ。職種や肩書にこだわりがあるわけでもない。どんな仕事にもコミュニケーションは付き物だし、家族や友人といった日々関わる人との会話の中で、相手の話をよく聴ける人になるために努力していきたい。

よく聴くためにはできるだけ雑念を少なくして、目の前の人の言葉と気持ちに意識を集中させるための技術と能力を鍛える必要がある。私が日記を書く第一の目的は、自らの雑念を片付けることにある。日記を通じた自己理解はそれ自体役立つものでもあるけれど、私が何より優先したいのは、書くことによって自分自身の頭の中と心の状態を整えて、実生活で関わる他者の声をよりよく聴けるようにすることだ。今書きながら、このことを再確認できた。

私にとって聴く人のお手本は、ミヒャエル・エンデの作品の主人公、モモ。モモの話を聞く力については、物語の序盤で多く語られている。個人的には後半で展開される時間泥棒との戦いよりも、前半の平和な世界の描写の方が好きだ。もちろんこの作品に描かれている世界は、ファンタジーでありフィクションだ。それでも、彼女はなぜ聞く力に長けているのか、この物語の主人公のキャラクターとしてなぜそのような能力が付与されたのかは、十分考察に値する。

余談になるけれど、最近雑誌で『モモ』が取り上げられているのを見て、今再び注目されているのかなと感じた。昨年以降、noteで読書感想文を何度か見かけた覚えもある。長く読みつがれてきた定番の作品でもあるので、偶然目についただけかもしれない。他方で、広い意味での現代文明批判を扱っているという点で、今はまさに再読に適した時期であるとも思う。私も改めて読み直してみよう。