210112 反省

努めて頭の中のモヤモヤを言語化するようにしていると、冷静に書いたつもりの文章も、全然冷静じゃないなということがよく分かる。

1.書いたものについて振り返る

時間を置いて考え直してみると、極端な表現が多くて全か無か思考的だったなと感じたり、自分に向ける言葉がやたらと手厳しいなと思ったりする。厳しい言葉をかけたがるのは、今は自分を鼓舞したい時期だからというのもあるだろう。けれど、一番の理由は、(明示されないものを含めて)私は他人から批判されること、自分の考えを否定されることを極端に怖がっていて、それに直面して傷つくのが嫌だから、「自分にだめなところがあるのは、重々承知していますよ」と予め自ら認めることによって、自己防衛をしているからだと思われる。

私の思考は、心身の状態の影響を受けて大きく変化する。小さなことに動じない、冷静沈着な人になりたかった。でも、どうやらそれは難しそうで、私の心と身体、それらに基づいて生み出される諸々の考えは、常に変化し続けている。だから、大事なのは、変化そのものは受け入れつつ、それに飲み込まれないようにすること、それが移ろいゆく思考の一つに過ぎないことに気づけるようになることだと思う。そのためにも、やはりこうして書き出してみることは必要な作業であり過程であると言える。

2.私的日記と公的日記の違い

加えて、日記を公開するとある種の緊張感が生まれるので、人の目に触れる可能性のある場所で書くのは、私にとってちゃんと意味のあることなのだと思った。そういえば、感情心理学のテキストの中で、私的日記とブログやSNSなどのオープンな日記の違いについて、以下のような記述があった。

…クローズドの日記は(他者に閲覧される可能性を完全には排除しきれないものの)個人的な秘密や人には話せない思いを綴ることができるし、往々にしてそうした記述がなされる可能性が高い。一方、オープンな日記は、確かにそこで赤裸々な告白をする人もいるだろうが、個別に程度の差はあれ、また、意識的であれ無意識的であれ、他者に対する自己のイメージを操作・統制しようと試みる自己呈示(self-presentation)的な要素が含まれるはずである。別の言い方をすれば、社会的な規範や圧力のようなものを、暗示的に(内化された社会的基準に照らして自律的に)感じるだろうし、あるいは、明示的に(読者からの「コメント」として)受けることになるだろう。このように、自分の感情や思考をコトバにする場所として、クローズドな私的日記と、オープンな公的日記とは、個人にとっての意味や影響は大いに異なるはずである。
(大平英樹[編](2010)『感情心理学・入門』(有斐閣アルマ)有斐閣、p165より)

他の人の文章やそこで交わされるコメントなどを読んでみると、今の私はオープンな日記を限りなくクローズドな形で使っているのだろうという気はしている。それでも、私的日記との違いは十分実感しているので、できればこれからもありがたくこの場所を使わせてもらいたい。

3.内向きではなく外向きを意識する

ただ、別の視点からの反省点として、内向きになりすぎるのは色んな意味でよくないなと思った。以前、要約すると「自分の世界に閉じこもってそれに没頭しすぎると、他人と上手に関われなくなるよ」という指摘を受けたことがある。私は調子が悪いときほど一人きりでこもりがちになるので、改めて、この助言は定期的に思い出すようにしたいと思った。自分で自分をずっと見つめ続けても、私にはきっと「客観的」に自分を捉えることはできないし、何も出てこないし、何も生み出せない。苦しくなって、逆に自分を見失ってしまうだけだ。

だから、うまくいかないと感じるときほど、意識を外に向けるように心がけたい。例えば、すごいなとか素敵だなと思った人やモノについて、どんなところに自分が感銘を受けたのか、何が心に響いたのかを具体的・詳細に書き出してみる。無理に自己理解を掘り下げようとして迷走した文章を書くよりも、その方がよっぽど気持ちが明るくなるし、仮にそれを読んだ人がいたときも、そういう文章の方が多少なりとも役に立ってよいのではないかと思う。
感動しいのくせに、本や映画の感想はちゃんと文章にしたことがない。以前も書いたけれど、文章にしてしまうと逆にそのときの感動が損なわれるような気がして、「とにかく好き…!」というところで終わらせがちだった。でもやっぱり言葉にする努力は、私にとってどうしても必要なことだと思う。読書感想文も書いてみるといい。きっと楽しいだろう。

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上記は「書くことの内容・対象を外に向けよう」という話だった。加えて今私が迷っているのは、noteにおけるコミュニケーションについてだ。ただの「自分ひとりの部屋」としてではなく、誰かに伝えるための文章を書いたり、共感できる人と会話をしたり、何らかのコミュニティに属したり、そういう役割をnoteに期待するのか。これを考え始めると、私自身の基本的な対人関係観から見直す必要がある気がしてくるので、この点については改めて別の文章で考えてみることにしよう。