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つぶやき

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喜びと悲しみは表裏一体だなと感じた。マイナスの感情と向き合いたくなくて見て見ぬふりをしていると、気づかないうちにプラスの感情まで見失ってしまう。小さな悲しみや苦しさも無視せず、色んな心の動きと変化を許してあげれば、きっと日々の喜びにも自然に気づけるようになる。それは私を強くする。

久しぶりに旧態依然とした雰囲気の年長者と接して、忘れかけていた自分の中の反骨精神を刺激された。歴史ある大組織の中では生きていけないだろうなと改めて実感した。ありがたいご高説を大人しく拝聴できる気がしない。多少キツくて適当さに呆れても、自己裁量で動けた方が私は幸せなんだろうな。

一定年齢を超えると新しい音楽を発見しづらくなるという説を聞いたことがあって、今まさにその段階な気がして残念な気持ちになる。忙しさだけが理由じゃないんだろうな。ある年頃に出会った曲はたしかに色褪せなくて今でも響くけど、出会いの瞬間のあの感動を、また味わいたいと思ってしまう。

全部自分で選んできたことだから受け入れるのは当然だと思っているけど、否定的なことを言われて流せる程大人にはなれない。意地になって自分を奮い立たせてみても、私は戦士になりたかったんだろうかと迷い始める。忙しさは弱気になる暇も与えない。それで私は今、見失っていないと言えるのか。

どんなに余裕がなくても、他人にケアや気遣いを求めるのは自分の望みではないのははっきりしている。でも、現実問題として苦しさに追い打ちをかけるような人とは一緒にいたくないのも事実だ。自分の捉え方の問題で人を拒絶する未熟さに罪悪感があって、でも湧いてくる気持ちも消せないから混乱してる。

以前、洗面所の前で力尽きて床に座り込んでしばらく泣いた。そのときのことを思い出した。おめでたい思考回路、確かだと思ったもののくだらなさ、選択と判断の誤りに気づいて、ただただ悲しくて情けない。けど床に座ったままではいられないから、明日と明後日とその次とこれからを頑張れますように。

自分と個々の人との関係は程々にこなして不満がなくても、周囲の人たちの関係が不穏な空気を放ちはじめると、如何ともしがたいストレスを感じる。そういう不和はどこにでもあって逃れられないものだと言われた。だとすれば、不協和音とチグハグさの中を平気で漂うことのできる強さを身につけなければ。

対人関係に対する期待の差:仕事では色々あってもまあそんなものだよなとある種の諦めと妥協がある。関係の状態がどうあれ業務上やるべき事は変わらないので、行動の方向性に迷いが生じにくいのだと思う。プライベートでもやもやしやすいのは、自分で自分の目指すところを定められていない証拠。

自分の適性とかよく分からないけど、実際の働き方を振り返ってみると見えてくる所はある。

・同じミスを繰り返すことが許せない
・業務の目的と全体像が見えないと苛立つ
・固定業務をミスなく無駄なく遂行したい
・短時間でできるだけたくさんの仕事をこなしたい。1秒も時間を無駄にしたくない

若い頃「迷ってても仕方ないから動かなきゃ」ってアドバイスは何度となく受けた。当時は頭では分かったつもりでもほとんど動けなかった。あまりにも混乱していて、少し動いてみても迷走が深まるばかりですぐにまた立ち止まっていた気がする。今はほんとにそうだと思うから、もっと動けるといいな。

私が公に固執する理由の根本には、私的な部分への不満足感がある。それに気づいて以来、〈私〉を改善しようと努めてきたけれど、やはり公に逃げたくなる。見方次第とは分かっていても、どうしても私は私を満足させられない。打開策は〈私〉の拡張と変化。その意味を疑っていたら、行き場がなくなるよ。

自分で吐いた毒でダメージを受ける。公益のために力を尽くすことが私の望みなんだけど、現実には独りよがりな思い込みと行動にしかならなくて、きっと自分も他人も幸せにしていない。文句垂れながら老いたくないのなら、もっと良い方法と姿勢を見出して、実践してみなければ。

最近公然と内輪ノリを作る人たちを心底気持ち悪いと思うようになった。少なくとも私はその輪に一歩も足を踏み入れたくない。内輪を強固にすればするほど当然場外の人間は益々疎外されるわけで、トータルで見ると場の意思疎通を妨げていると思う。この事実に無頓着で無邪気な仲間関係に寒気を覚える。

忙しすぎて心が折れそう。どこまでが自分の力で対応できる範囲なのか見極めるのが下手で、思考停止に至るまで際限なく義務に追われ続けてしまう。これは周囲にも迷惑をかけかねないので改めたい。今折れるわけにはいかないし、折れない程度の、程々のがんばり方を覚える努力をする。折れませんように。