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Ep.1 梶井基次郎 『檸檬』について考えること

僕は高校時代、梶井基次郎の『檸檬』という作品に出会った。

憂鬱な気持ちを抱えた主人公である私が京都の街を歩いている。
そんな私は前から気に入っていた果物屋の前で足を止め、檸檬を購入する。檸檬を手にした私は幸福な気持ちになり、以前は好きであった丸善に入り、画集を積み上げていく。その画集の上に一つの檸檬を乗せ、檸檬爆弾に見立てて丸善を後にし、丸善が木っ端微塵になる想像を膨らませ幸福な気持ちで京都の街をまた歩いていく。

高校時代の初読の感想としては、よくわからないという気持ちが強かった。
しかし、大学生になり『檸檬』という作品についてもう一度考えてみた。

主人公の私が抱えている「えたいの知れない不吉な塊」ってなんだろうか。
本文中では、私が抱えている肺尖カタル(肺病)や神経衰弱、借金などではないとされている。

ここで私は「えたいの知れない不吉な塊」について考察する。
初めに「えたいの知れない不吉な塊」を辞書で引いてみることにした。
「えたいの知れない」→正体がよくわからず怪しいこと
「不吉な塊」→暗い運命に見舞われる兆しがあるさま
「不吉な」には自分ではどうしようもできない、不可抗力がみて取れる。

辞書で「えたいの知れない不吉な塊」という言葉をみてみると、そうだろうなという意味しか出てこない…

ここで私は、時代背景と結びつけて考えてみた。
『檸檬』という作品が描かれたのは明治時代
明治時代の日本は急激に近代化する必要があった。

丸山眞男(著)『「である」ことと「する」こと」の
「日本の急激な近代化」では次のように書かれている。


日本は急激に近代化する必要があった。→結果として宿命的な混乱をもたらした。そして近代化によって自分を変化させなければならない。その様子を夏目漱石はノイローゼ症状を呈していると表現した。
(また、丸山眞男さんについても書いていきたい)

これを踏まえ僕は「不吉な塊」を「近代的自我」と置いた。
近代的自我とは簡単に言えば日本の近代化に伴い、封建的な制度や、産業、資本、民主に至るまで支配的な考えが一掃され、困惑し、混乱する日本で自己のあり方について悩み苦しむ様子のこと。
「不吉な塊」を「近代的自我」と置くことでこの作品が理解できてくる。

ここで僕が考えたことは
梶井は近代への移行の時代に反逆心があったのではないだろうか。
ということだ。

そのように考える四つの理由
① 作中の「私」は壊れかかった町、汚い洗濯物、転がっているガラクタ、裏通り、安っぽい花火などの「みすぼらしくて美しいもの」を観ることで精神が癒されていく。
→というような表現があるように西洋の逆ともみて取れる「古くからある日本的なもの」に感動している点。

② 不吉な塊から逃げ出すためにするために梶井は錯覚を活用している点。
→「仙台とか。長崎とか。」

③「丸善」が近代の象徴として描かれている点。
→理想的な美の世界を提供していたはずの丸善が、重苦しい場所になった。

④ 近代の象徴である丸善を檸檬爆弾によって爆発させる想像を膨らませた点

以上の四つの描写から梶井の明治時代における近代化を僕は捉えた。
そう考えると「檸檬」が「レモン」ではない理由も見えてくると僕は思う。

ここに正解はないけれど、自分なりの考察をしながら読むのって楽しいなって僕は思う。
人間、生きていれば憂鬱を抱えることだってある。
その時に自分の「檸檬(檸檬爆弾)」を見つけることはできるだろうか。

私はまだまだ見つけていかないといかないと、って思う。



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