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カウントダウン「LEGEND GAME2024」#25 郭泰源編
「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」(3月16日/ベルーナドーム)に出場するOBのプロフィールを紹介していきます。
郭 泰源(かく・たいげん)
投手 右投げ・右打ち 1962年3月20日生まれ
ライオンズ在籍:1985~97年
通算成績:272試合 117勝68敗 18セーブ 防御率3.16
背番号:12(85~86年)、18(87~97年)
球界を代表する多くの好投手とバッテリーを組んできた伊東勤が「特A。初めて受けたとき、その球威にこんな投手が存在するのかと衝撃を受けた」と語り、対戦したパ・リーグの猛者たちが「どれを取っても一級品」「キレ、スピードが飛び抜けていた」「本気で投げられたら打てなかった」と振り返る。
通算117勝は、ライオンズの外国人投手歴代最多。ノーラン・ライアンの「カリフォルニア・エクスプレス」を由来に「オリエント・エクスプレス」と名付けられた。
その評判が日本に届き始めたのは、83年に韓国ソウルで開催されたアジア選手権。ロサンゼルス五輪の予選を兼ねたこの大会で、郭泰源は韓国相手に17イニングを無失点、代表決定戦では日本打線を2安打完封、1対0で勝利する。ロス五輪のアメリカ戦では、球速158㎞/hをマークした。
まだ台湾にはプロ野球リーグのない時代。MLB球団を含めた、郭の争奪戦が展開され、なかでも読売ジャイアンツは「好きな金額を書いていい」と、白紙の小切手を手渡した―。そんな逸話が伝えられている。そんななか、郭の高校生時代から、いち早く接点を持っていたライオンズが獲得に成功する。
来日初登板となった85年4月8日の近鉄バファローズ戦で、1失点完投勝利すると、4月に投げた3試合をすべて完投で2勝0敗(1試合は引き分け)。28イニングで失点1、防御率0.32の驚異的な成績で、いきなり月間MVPを獲得する。前評判通りの活躍をみせる。
6月4日の日本ハムファイターズ戦では、2死球を与えただけのノーヒットノーランを達成。ライオンズでは18年ぶり、埼玉に移転してからは初めての偉業だった。
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7月8日後楽園球場の日本ハムファイターズ戦では、1回裏高代延博の3球目、2回裏津末英明の3球目に、当時の日本球界最速となる156㎞/hを計測。140㎞/h台の後半を投げれば、速球派と言われていた時代に、郭はスライダーの球速が140㎞/h台。よく「東尾の真っ直ぐより、泰源のスライダーのほうが速い」と、冗談交じりに言われていた。
ただ外国人選手とはいえ、プロ経験はなく、1年間通して野球をするのは初めてだった22歳。それでいて中4日で先発することもあった。7月に右肩を痛めてしまい登録抹消。そのまま1年目のシーズンは終了となる。
翌年就任した森祇晶監督は、肩に不安のある郭を、まずは抑えで起用。リハビリを兼ねて短いイニングから復帰をさせていくと、チーム最多の16セーブ。続く87年は、空き番号となっていた「18」に背番号を変更して、先発に本格復帰。13勝4敗で最高勝率のタイトルを獲得する。
毎年のようにヒジ、肩の痛みを訴え戦線離脱するのだが、状態が良いときのスライダー、シュートは、まさに横滑り。低めへのコントロールも抜群で、先発すれば、完投するのが当たり前だった。
ライオンズ球団タイ記録となる開幕10連勝をした88年は、シーズン19試合に登板して15完投。91年は球団記録の9試合連続完投勝利をするなど、15勝してMVP。92年には、これも球団タイ記録の3試合連続完封勝利を達成している。
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通算229試合に先発して92完投。割合は4割を超えている。好調時には、森監督に「寝てていいよ」と軽口をたたいてそうだが、その言葉通り、たしかにベンチは継投を考える必要がなかった。
95年の秋頃から、右手首を痛めて本来の投球ができなくなり、97年限りで引退。10月5日に行われた引退試合では、福岡ダイエーホークスの1番打者・秋山幸二ひとりと対戦。最後は133㎞/hのストレートで、ショートフライにうち取った。
台湾に戻ってからは、代表チームの監督やコーチを務め、五輪予選やWBC、プレミア12などに参加している。日本でも秋山監督のもと、福岡ソフトバンクホークスの投手コーチを2年間担当した。
15年に、台湾代表投手の郭俊麟がライオンズに入団した当初、登録名を日本語読みの「かく・しゅんりん」にして、背番号12が与えられた。もちろん、これは郭泰源にあやかってのモノだった。
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主なタイトルなど
最優秀選手(91年)
最高勝率 2回(88、94年)
ベストナイン(91年)
ゴールデングラブ賞2回(91、92年)
オールスター出場 2回(90、95年)
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