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カウントダウン「LEGEND GAME2024」#28 渡辺智男編

「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」(3月16日/ベルーナドーム)に出場するOBのプロフィールを紹介していきます。

渡辺 智男(わたなべ・とみお) 

投手 右投げ・左打ち 1967年6月23日生まれ
ライオンズ在籍:1989~93、98年 
通算成績:123試合 45勝 40敗 2セーブ 防御率3.73
背番号:21(89~93年)、39(98年)

85年春、高知県立伊野商高がセンバツで初出場初優勝したときのエースで4番。この大会の準決勝では、清原和博・桑田真澄の「KKコンビ」擁するPL学園を、1失点に抑える完投勝利。圧巻だったのは、清原との対決だ。

空三振、空三振、四球、そして見逃しの3球三振。地元の子たちが集まった県立高校のメガネ姿のピッチャーが、優勝候補筆頭の超高校級4番バッターを、力で捻じ伏せてみせたのだ。

ちなみに投手だが右投げ左打ちで、決勝の帝京戦では、のちにロッテオリオンズ入りする小林昭則から、左打席で先制の2ランを打っている。

NTT四国では3年連続で都市対抗に出場。入社3年目、東京ドーム元年だった88年の大会では、2回戦で熊谷組と対戦して、のちにライオンズでチームメイトになる鈴木哲と先発同士で投げ合った(試合は7対3で熊谷組の勝利)。 

この大会の約3週間後にイタリアで行われた「第30回世界アマチュア野球選手権」のアメリカ戦で先発、MLBドラフトで1位指名された選手5人を擁した強力打線を、8回1死まで3安打に抑えるピッチングをしていたが、投球中に右ヒジを痛めてしまい緊急降板。翌9月に開催されたソウル五輪は、2イニングを投げただけで終わってしまう。じつは中学2年生のときに、右ヒジの剥離骨折をしており、痛みと相談しながらの投球を続けていたという。  

帰国後に右ヒジを手術。そのためプロ拒否の姿勢をうち出していたのだが、秋のドラフト会議でライオンズが1位指名する。新聞紙や週刊誌では“密約説”が飛び交うなか、入団を決めた渡辺には、このシーズン限りで引退した東尾修の着けていた「背番号21」が与えられた。

ヒジの回復を待って6月に1軍初登板。デビュー戦こそ、先発して2回途中7失点と散々な内容だったが、8月に入ると4連勝するなど、次第に本領を発揮。プロ1年目から二桁勝利をしてみせる。

なかでも熾烈な優勝争いを続けていた近鉄バファローズを相手に、5試合に先発して4勝1敗。主砲のラルフ・ブライアントから「吊り橋のように」ホップする高めのボール球のストレートで、空振り三振を奪うピッチングは、新エース誕生を予感させた。

翌90年も開幕から5戦5勝するなど、1年間ローテーションを守って自身最多の13勝をマーク。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第3戦に先発。相手の先発は桑田で、センバツ準決勝の再現となったが、渡辺は9回を5安打に抑えるシャットアウト投球。日本シリーズ史上8人目となる、初登板初完封勝利となった。

日本シリーズ 初登板無失点勝利

このシリーズ0勝4敗で敗れたジャイアンツにあって、打率.417で敢闘賞となった岡崎郁は、対戦したライオンズの投手陣について「ナンバーワンは渡辺智男。ボールの空気を切り裂く音が『ドン』という感じで来る。ボール自体の威力で勝負している。凄い」と振り返っている。(「Number」90年11月20日号)。

だが、全盛期は短かった。プロ4年目だった92年のシーズン終盤に、右ヒジ痛が再発。翌93年は1軍登板なく終わる。すると、このオフ、球界を揺るがした3対3の大型トレードで、秋山幸二、内山智之と、福岡ダイエーホークスに移籍する(ライオンズには、佐々木誠、橋本武広、村田勝喜が加入)。

移籍1年目の94年こそ、2完封を含む4勝をあげるが、右ヒジをかばううちに、今度は腰痛を発症。一時はサイドスローにも挑戦したが、結局その後、勝利をあげることはできず。

98年に金銭トレードで、ライオンズに復帰するのだが、1度も1軍で投げることなく、この1年限りで引退をしている。

引退後は、ライオンズのスカウトとして、主に四国地区を担当。育成ドラフト5位から新人王に輝いた水上由伸を発掘している。

ちなみに奥さまは、ホームランを打ったライオンズの打者に、レオ人形を手渡すなどしていた「マスコットガール」の女性。当時、選手が彼女たちとプライベートな交流を持つことは、球団から禁じられていたそうだが、そんな「ご法度」を、軽々と飛び越える”フットワーク”の持ち主でもあった。

渡辺智男 年度別成績

主なタイトルなど
 最優秀防御率(91年)
 オールスター出場 (90年)


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