見出し画像

カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#31 田辺徳雄編

田辺徳雄/路朗(たなべ・のりお)

内野手 右投げ・右打ち 1966年5月11日生まれ
ライオンズ在籍:85~99年(選手)、
        2002~09、10途中~15、19~22年(監督、コーチ)
通算成績:1229試合 3461打数 926安打 打率.268 87本塁打 442打点  60盗塁背番号:51(85~86年)、6(87~99)、
    76(02~09年)、82(10~14年)、90(15年)、
    75(19年)、71(20~22)

富士山の裾野、山梨県富士吉田市出身で、中学時代は冬になるとスピードスケートやラグビーもやっていた。そうした環境のなか、バネのような筋肉や足腰の強さが育まれていく。

吉田高2年の夏に、甲子園出場。1学年上のエース吉井理人(現千葉ロッテマリーンズ監督)を擁する箕島高の前に、延長13回サヨナラ負け。1回戦敗退となったが、84年ドラフト会議でライオンズが2位指名する。

この年のライオンズのドラフト戦略は少数精鋭。田辺と、1位の大久保博元(読売ジャイアンツ前コーチ)、3位の高山郁夫(オリックスバファローズ前投手コーチ)の3人しか指名していない。それだけ評価が高かったと言える。

1年目から1軍で2試合に出場。4打席ノーヒットに終わったが、イースタンでは打率.303をマーク。翌86年には、同期の大久保、後輩の山野和明らと、カリフォルニア・リーグ「サンノゼ・ビーズ」へ野球留学する。そこでは139試合に出場。3番を打った田辺は、打率3割、9本塁打、65打点、26盗塁。「日本に帰らず、MLBを目指せ」と言われるほどの好成績を残す。

この成長ぶりに森祇晶監督は、左ヒザを故障していたショートの石毛宏典を、守備の負担が減るサードへ。サードを守っていた秋山幸二をセンターへ移すコンバートを決断。高卒3年目の田辺を、ショートの開幕スタメンに抜擢する。

ケガもあって、そのままレギュラー定着とはいかず。しばらくは清家和政、藤野正剛との併用が続いたのだが、入団5年目の89年になると、やや前かがみの打撃フォーム、リストの強さを感じさせるバットスイングからヒットを量産。初めてシーズン規定打席に到達して、パ・リーグ2位となる打率.316をマーク。ショートの定位置をつかみ取り、ベストナインとゴールデングラブを初受賞した。

90年から、辻󠄀発彦の打順が1番に上がると、田辺が9番を打つことが多くなった。それでいて、91年に11本、92年は自己最多の13本と、2年続けて二桁本塁打。チャンスにも強く「意外性の男」「恐怖の9番打者」と呼ばれるように。さらには、その弾けそうなくらいパンパンに筋肉が詰まった体形から「ポパイ」、実年齢より上に見える顔立ちから「おやじ」など、さまざまな愛称がつけられた。

いずれにせよ、パンチ力があって、思い切りのよい田辺が9番に控えていることで、上位から下位まで、ライオンズ打線にはまったく切れ目がなくなった。

抜群の守備力を持つ奈良原浩が加入してからは、追われる立場となるのだが、93年ヤクルトとの日本シリーズ第3戦では、試合を決定づける3ランと、要所のバッティングでポジションは譲らず。

94年はケガのため規定打席にわずか届かなかったものの、打率.338。シーズンの優勝マジックを1とした10月2日の近鉄バファローズ戦で、5回表に代打満塁ホームラン。パ・リーグ史上初の5連覇を決める試合に、ド派手な花を添えた。

96年以降は松井稼頭央の台頭があり、出場機会が減少していく。99年オフに自由契約となり、ジャイアンツへ移籍。登録名を「路朗」に変更して、不退転の決意で臨んだが、わずか出場7試合1安打に終わる。このシーズンを最後に、16年間の現役生活に幕を下ろした。

02年に2軍打撃コーチとして、ライオンズに復帰する。ちょうど同じタイミングで入団してきたのが、中村剛也と栗山巧のふたりだった。
「中村はどちらかというと天才肌。栗山は少し荒っぽかった印象。毎朝、ふ  
たり早出でティー打撃。栗山は腕の力だけに頼って打っていたので、それを 直すため、とにかく振り込ませることを意識して指導しました」と、振り返る。 
 
1軍の打撃コーチだった14年6月、シーズン途中での休養を申し入れた伊原春樹監督のあとを受け、監督代行に。翌年正式に監督となり、16年まで指揮を執った。 

田辺徳雄 年度別成績

主なタイトルなど
 ベストナイン 2回(89、92年)
 ゴールデングラブ賞 2回(89、92年)
 オールスター出場 2回(92、94年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?