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声がするから

何かの存在は音を発してる気がするし、あたたかさをかんじもする。それがしあわせとか、不幸せとかの揺れ動くものにあてはめなくても、なんとなく、あったかい人とか、あったかい犬とか、あったかい魚はちょっとべつだけど、
声を聞きたい幻想を乞うてしまう。
関わるさまざまな対象に。
しかしそれは聞こえたり、感じたりするのとも違う、今おきていること以外に反響する何かの音は感じられない。

過去についてもう考えるのは、飽きてしまうこともある。つごうのいいもので、うれしかったことや楽しかったことしか思い出せないものだ。

私はイコンを見るのが怖くて、しかし好きだなと思い込んだ。実際、著作権がないころのもの、無償の、修行の成果物。今は画集や文献でしか見ることができないものも、あるけれど。

描かれているモチーフじゃなくて、その軌跡は何かさみしかった。けれど熱をもっているなと思う。ただその世界の枠を強要するものでもないから、ただそこに、必要な人に存在している。

人も、その時見ている相手は表現の一つで、その人を立させている背景はわたしは透明な湖や果てしない地平線から産まれた一粒の滴だとおもっていたい。それは無感情とかじゃなくて、受け入れることそのままで、あたたかい世界に自分も包まれる感覚がわたしはすきで、それだけだ。

なにかを愛おしく感じるのはなぜだろう。その対象に、生かしてもらっていると思い、あたたかいので、いつまでもそこにいたいのかもしれない。
けれど、ひとつひとつ、自分でたっているから特別心配しなくても、そのまま、生かしてもらったことは、どんな小さな生き物でもどでかい。時に人そのものをまるきり洗ってしまうほどと、自分はそういった幻想を大切にしていたいな。それが私の世界で、もっとひろがるか、スリリングで驚愕で平穏な状態が、その外部の熱から保たれている感触を、言葉としてのこしたい。それがわたしの身体である。世界だ。
ただ、感触を、いつでも思い出したいな。心臓がやさしくつかまれたような。その体験が、世界だから。

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