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朝陽館のリニューアルオープン記念として「しししし3」に掲載したインタビュー記事を全文公開します!

*この記事は、2020年4月27日刊行の「しししし3」に掲載したインタビューの1部です。

2021年12月にリニューアルオープンした朝陽館を記念して、少しでもお店の魅力を知っていただければと思い、「しししし3」に掲載したインタビュー記事を全文公開することにしました。
読んでみて、面白いと思っていただけたら、ぜひ新しくなった朝陽館荻原書店へ行ってみてください。そして、ぜひ「しししし」を買ってください!!

「100年先輩に聞く。」

朝陽館荻原書店 荻原英記さん(聞き手=竹田信弥)

 2019年12月某日。編集部は、長野県長野市、善光寺に繋がる表参道に面した朝陽館荻原書店へ伺った。本屋としての創業は明治元年。約150年続く本屋さんだ。しかし、2019年12月31日をもって閉店する。

「しししし」では、創刊時から100年をテーマにしたコーナーを作りたいと考えていたが、いろいろな案は浮かべど実現できずじまいだった。そうしている間に、朝陽館の6代目である荻原英記さんと出会った。その時は、まだ閉店する予定はなく、町の本屋として150年の節目でもあるので、いろいろ新しいことに挑戦したいと話されていた。

 しかし、2019年11月ごろ、閉店するという連絡が入る。荻原さんと話をしていくうちにそうではないことがわかってきた。そこで急遽、お店についての「これまでとこれから」を話していただくことになった。

 お店に到着すると、手前の書店スペースを抜けて、ギャラリーとして使われている古い蔵に案内された。中に入るとすぐ、さらに二階へと促された。そこには、見るからに古そうな本たちが積まれていた。

荻原 これは、うちのお店が明治時代とかに売ってた本なんですよ。売れ残りなので、これ全部新品と言えるんです(笑)

―おお、たしかに!

荻原 明治の和綴の本。これは……『女性の嗜み』って書いてますね。明治や大正になってくると軍関係が多くなってきます。あとは、教科書や指南書が多いですね。そうそう、江戸時代後期から明治初期ってまだ交通も良くないので、本を運ぶの大変なんですよ。それで、版木を買ってきて。

―え、こっちで刷るんですか??

荻原 はじめに東京とか都市部で印刷して。ある程度落ち着くと、その本の版木が流れてくるんですよ。それをうちみたいな地方の書店が刷って、綴じて、売るんです。そして、その版木はさらに地方に売って。ここだと次は北陸のほうに流れていったみたいです。だから、その版木はもうほとんど残っていないんですけど。

―もったいない。

荻原 ただ、たまたま火鉢のカバーに使っていたやつが、版木を再利用したものだったみたいで。

―おお、すごい!(*1写真)なんか、お洒落ですね。

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荻原 本屋って今でこそ、普通に印刷された本を仕入れて置いてますけど、それ自体が大変だったんですよね。江戸とか中心から離れている分、特に鉄道が整備されていない時代は本を輸送することが難しい。その時代の印刷と流通がこの蔵に残る書物から垣間見ることができます。

―この蔵はこの後どうされるんですか?

荻原 残します。この建物だけが、江戸時代のものなんですよ。うちは元々は本屋じゃなくて、地主で田畑を結構持っていたみたいで。そのころは米倉だったんです。こういう蔵が四つ並んでいたらしい。明治維新や戦後の農地解放で、多くの土地を失い、蔵も一つだけ残して倉庫として使っていました。荻原家は15代続いてるんですが、明治初頭のころ11代目が県議会議員をやっていて、学校の創設に関わったんです。その学校が朝陽学校って名前で。その時期に創業していた本屋を「朝陽館」という屋号に変えたようです。農家の次男・三男など食べていけない人がたくさん出てきた時代で、都市へ次々に出ていかざるを得なくなって、役に立つようにと学とか教養を身につけて東京へ送り出すようになり、そうして長野県自体が教育県としても充実していったんだと思います。

―余裕があった人が分配する。

荻原 うちも本屋としては、二十年前までは路面の1部だけしかなかったんです。近くにあったダイエー内にも支店はあったんですけど、売り場面積は小さなものでした。長野オリンピックを機に今の形になりました。店の裏手にあった住居も移動して、本屋を拡大して。ただ、オリンピックを迎えたら、その頃が本の売り上げはピークだったんです。そこからちょうどインターネットが普及しはじめて、活字離れというのか、そういう時代が始まって。新幹線ができたことで、長野から東京に出やすくなったりして、より人材が流れるようになった。日帰りできるようになって企業も支店支社をおかなくなりました。人も減って店は売上が減っていきましたが、本屋業界が右肩下がりに落ちていくグラフとも合うんです。ただ、昔は良かったかというと、売上はあっても利益でみたらさほどないんですね。本屋って昔から構造的に儲けの少ない商売なんだと思います。なので本屋の大型化がどんどん進む状況もよく理解できます。今、明治期から現在までの店の歴史を整理しているんですけど、この蔵にある古い本なんかもみていくと、歴史が網羅できそうです。

―奥の方は、経典ですか?

荻原 そうです。善光寺があるので経本が売れたようです。善光寺って無宗派なんですね。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が管理しているんですが、大本願は尼寺なんです。宗派も性別も関係なくどんな人でもウェルカムなんですよ。

―観光とかを考えたんですかね。

荻原 秘仏とされる善光寺式阿弥陀三尊は日本最古の仏像と言われていますが、戦国時代から時の権力者とともに各地を巡り最後に信濃に戻ります。秘仏が留守にしている間、このあたりはかなり荒廃したようです。お戻りになって善光寺もこの町も復興していくのですが、その頃から先祖がこの地にいたと思うと感慨深いものがあります。あちこち回られた御本尊ですから、案外、旅を好まれるのかもしれません。

―この蔵は、今はギャラリーなんですね。

荻原 はい。二十年前に改築した時に、ギャラリーにしました。地元のアーティストとか、陶芸家とか、そういう方達に貸し出してました。読書会なんかもやっていましたね。

―あれはなんですか?(蔵の二階の奥の方に、木製の机のようなものがある)

荻原 これは昔の番台ですね。今でいうレジですね。

(ここで、一旦1階に降りる)

荻原 この本の奥付を見てください。うちが出版している本ってことになっているんです。でも、たぶん最後のページの版木だけ差し替えていて。

―これは当時のものですか?

荻原 はい。裁断に失敗して、世に出なかったものじゃないかと思います。

―逆に、だから残ったと。

荻原 たぶん版木を買ってきて、発行元のところだけ入れ替えて、刷っていた。編集とかはできないけど、本屋が情報とか知識を広める役目を担っていたんだと思います。 

―知らなかったです。今の時代でもやってもいいかもしれません。今なら、出版社がデータを作って、そのデータを書店にレンタルして、書店が地元の印刷屋さん製本屋さんで好きな数を刷って、それを報告して。面白い試みになりそうですね。書店ごとにデザインとかを変えたり。

荻原 今は小ロットで印刷できるようになっていますからね。その流れが来つつあるな、と思っています。例えば、ライオン堂さんは本を出すとか雑誌を出すかとかしてますよね。そういう動きが活発になってきているじゃないですか。昔はそれこそ、仕方がなく、印刷製本をしていたんだけど、今は自由な形として、本に関わる人たちが垣根とかを取っ払って、ボーダレスにできるようになっている気がしますね。流通も小回りがきくようになっているし。技術の進歩が大きいんだけど、そういうのを最大限に利用していけば、現代版のもっとすごいことができるんじゃないか、と思います。自由で大らかに本と関わりを持てる時代になってきたのかもしれません。

―ものを移動させるには本当にたくさんのエネルギーが必要ですものね。返品とかもバカにならないので、受注精算で、地域密着で、出版と書店活動できると面白い。少し前に、九州のほうに行ったんですけど、知り合いの書店員さんと話したら東京の取次から本を仕入れる場合、最低5万円は仕入れてもらわないといけない、と言われた、と。なかなか少ない物量で送ってもらえないから使いづらい、みたいな話も聞きました。送料を別途払えばもちろん対応してくれるんでしょうけど、結局は送料を賄うために同額くらい仕入れないといけない。そうすると大きなお店しかなりたたなくなってしまう。

荻原 地域みんなで輸送コストを分担するとかそういう仕組みがあるといいですね。そのためには、協力し合える本屋さんが地域内に複数ないと成り立たないから、自分のところだけでもダメなんです。

―なるほど。

荻原 自店の歴史を今探っているんですけど。アルバムとか見ると、昔の組合の慰安旅行の写真があるんです。今、そういう組合とか書店同士のつながりは弱いですね。今後どうやっていこうか考えないといけないし、温泉に行くとかじゃなくて、本屋同士で連携できると面白いと思うんですよね。大都市と離れているところを協力してカバーする仕組みが必要になってくると思います。

―確かに。東京はわりと本屋同士は仲がいいですけど、もう一歩ビジネス的に、制度的に連携できるといいですね。

荻原 そう。そうなると、町のポテンシャルも大事になってきてきますよね。ちょっと話が逸れますけど、僕、本屋の歴史を物知り顔で語っていますが、実は、ここにきて二年しか経ってないんです。4、500年続く家の歴史のうち、本屋は150年続いてきた家業ですが、その店を受け継ぐ者としては、せっかく150年続いているのだから、さらに100年は続けたいと思って。そう考えたとき、商売としての形に限界がきているなかで、このまま続けるのか、これをひっくり返すのかどうか、というのが課題になったんです。本屋でやっていくことの厳しさは痛感していましたから、今の延長上では難しい状態だなと思ったんです。ライオン堂さんも100年続けるって書いてましたよね?

―書いてます書いてます。

荻原 同じこと考えている!って思ったんですよ。次の100年先まで考えて、今までの書店組合などとは少し違う形で、流通とかそういうものを本屋が主体で作っていくことができないか。既存の流通の仕組みに縛られて、置ける本が狭い範囲で決められていくのは、もったいない。枠から自由になることで、100年間残せるんじゃないかと思うんですね。それこそ、いろんな書店が東京を中心に新しくできてきて、地方にも広がっている気がします。町の書店というものを2年間みてきて強くそれを感じる事ができました。

―では、本題に入りましょうか。そもそも、この企画は、お店を100年残すというコンセプトで始めたので、すでに100年経っている本屋さんや本屋以外も含めて、続ける秘訣を100年先輩に聞いて回ろうかと思ったのがきっかけです。それで、150年歴史のある朝陽館さんにと思った。そしたら、お願いしようとしていた矢先にお店を閉めるということで驚きました。ただ、話を聞いていくとポジティブな理由でもあるということがわかってきて。なおさら「朝陽館」さんにお願いしたいと慌てて来たんですよ(笑)。さっそくですが、閉店についてからお聞きしましょう。

荻原 閉店の前に、僕がここにいるきっかけからお話しすると、自分はこの家に婿養子に入ったんですけど、この家と本屋を引き継いで守る前提で妻とも関係が始まったんです。荻原家としては僕で16代目になりますが、この家を後なん世代残せるか、というのがまずはじめにあったんです。

―16代目ってすごいですね。

荻原 流石に守れもしないことに目をつぶって引き継ぐことは出来ないな、と。で、自分はたまたま本とか本屋が好きだったこともあって、関わるなら守る方法を考えようと。

―朝陽館は奥様のご実家?

荻原 そうです。彼女がもともと跡取りとしてここで働いていました。本屋としては妻で6代目になります。僕はここに来る前、飯田橋のあたりでサラリーマンをしてました。神楽坂のかもめブックスが近くにあったので、通ってましたね。

―飯田橋はうちの妻の実家がありますね。どうでもいい情報ですが。

荻原 一昨年まで、そのへんにいたんですよ。たまたま長野の信濃町や飯綱・戸隠のほうによく遊びに来てたんです。で、歴史のある名家で本屋を150年やっている人がいるから婿にいかないか?、なんて言われていたんです。妻とはその紹介があって出会いましたが、その時は、この時代に本屋やってるの大変だなぁくらいで。で、お店に入った瞬間に、普通の町の本屋でしたから、これを残すのは大変だな……と、改めて思いましたね。でも、面白い本屋が東京にできてきているのは知っていて、そういう本屋が長野市にはまだないなら、可能性はあるんじゃないかなとも考えたんです。それで、まぁ、婿養子の件は横に置いといて、これからの本屋が求められることやできることなどの話を彼女にするようになって、東京のかもめブックスとか、B&Bとか、特色のある本屋さんに連れていきまして。いろいろ本屋の話を聞いていくうちに、会社組織としての課題の方が大きいな、ということにも気がついたんですね。

―朝陽館の?

荻原 そうです。長年、150年分の積み重なったオリのようなものがあるんですね。これをこのまま残すとして、さらに100年続けられるのだろうか。これは組織自体を変えていかないと。そういうところからスタートしました。もちろん、長年やってきている分、特に家族には思い入れもあるんですけど、店の歴史を断絶させちゃうのもどうかとか悩みはしました。でも、違う形で再建もできるだろうし、クリーンな状態で始めたいなと。その方がより長く続けることができそうだと判断したんです。様々なケースを考慮した上で、結局会社清算の結論に至りました。

―客観的に経営者として、一旦区切りという判断をされたと。

荻原 実際の経営者は、これまで店を大きくして守ってきた父ですから、その状況を理解してもらうのに時間を割きました。父も店を大きくしてからは、売上が下がっていく中で耐えてきた思いがあるので、この後どう本屋を続けていくのか、というのを長年考えていたみたいです。一方で代々続く本屋を町に残して欲しい、という思いもあるんだけど、やっぱり本屋でやっていけるのかって押し問答が。僕にも何度も言ってたんですよ、本屋じゃなくてもいいんだよと。

―それは柔軟ですね。でも荻原さんがやっぱり本屋がいいと。

荻原 僕は本屋に可能性を感じているんですよね今でも。一度きれいにした後に、もう一度本屋をやりたいなと。もちろん、同じように本屋だけでやるのは厳しいのもわかってます。竹田さんみたいに本を作れるわけでもないですし。

―僕も、たいしたことはしていないですけど……。

荻原 本屋+α、どんなサービスが付け足せるか、それを今考えていますね。

―閉店するけど、ポジティブな感じ。再開するお店は本屋がメインではないかもしれない?

荻原 んー、本屋だけだとやっぱり厳しいので。本から離れないけど、何かとコラボしていく。それでいて本にリンクし続けていく形態を考えていますね。150年続いた本屋って、大げさかもしれないけれど、書籍流通の歴史を最初から見続けている存在なんです。だからと言って、この家の歴史や代々続く本屋の重みは自分たちのものでしかないんですね。秘伝のレシピがあるわけでもなく、地場の名産でもないし。だから、この先も本に関わり続けることや、いつの日か本屋として再建することは、もうほとんど僕たちの意地でしかないのかもしれない。幸い新刊書籍は時代を表しながら常に変化をしていくし、書籍だからこそあらゆる事柄にリンクできます。言い方を変えれば、いつだって本屋はできるし、本屋としての形にこだわる必要もないのかもしれません。

―具体的にはまだ?

荻原 そうですね。なんとなくはありますけど、まだ残念ながら公言できるレベルではないです。

―どれくらい先に再開とかも……。

荻原 善光寺の次のご開帳が2021年なんですよ。七年に1度の。ただ、そこには間に合わないかな。2年後くらいですかね。お祭り騒ぎするのではなく、当たり前にそこにあったかのように、しれっと再開したいです。

―結構、長期計画ですね。

荻原 会社の整理などに、時間がかかるんですね。創業者が地域への貢献とか、人々の将来性や豊かな暮らしとかを考えて、本屋をやることを選んだ、というのがあるので、代々その意思をついでいて、僕もその気持ちはついでいこうと思うんですけど、どこかそれが奉仕活動になっていて、ビジネスから離れてしまっていた部分もあるんですよ。それだとやっぱり100年は残れない。

―確かに。利益を莫大に出さなくてもいいですけど、日々の暮らしはありますしね。

荻原 やるからには、ちゃんとビジネスとして継続性のあるものにしたい。バランスがとれる事業計画を煮詰めたいんです。所詮は事業計画って青写真でしかないけど、それでも自分が納得するところまでは詰めようかなと思っています。だから時間は長くとってあります。気持ちだけではなかなか長く維持させる仕組みができない。本と離れないところでやっていくというからには、薄利な部分はありますからね、本屋は。その部分を何でカバーするのか、そしてこの町でどう立ち振る舞うのか。そうした自分の中にある思いの熱量をあげていく必要があるし、地方だと駐車場をどう確保するかといった条件的な部分をクリアしていくことも必要です。

―場所は同じ場所ですか?

荻原 場所は、同じ場所ですね。数百年家族が住んできたところだし。なんでしょうね、やっぱり本屋って裏路地でもいいんだけど、僕はこの表参道が好きなんですね。外からきた人間だからかもしれないんですが、明るい色の石畳と一直線に伸びる参道が気持ちよくて。開店前の掃きそうじが楽しみだったりします。ここで看板を上げ続けていきたいですね。さすがにここの土地を自分の代で手放したら、死んだあとにご先祖様に合わす顔がないですよ。

―テーマを変えて、長野の町について。

荻原 長野市自体、人が中心地から郊外に移っていて、学校とかもなくなっているんですね。うちが創立に関わった朝陽学校も途中で名前が変わったんですけど、そこも今はもう閉校してしまいました。だけど、近々東京でも起きているような都心回帰がこっちでも起こると思っていて。ちょうど、この一年で大規模商業施設のオーナーがどんどん変わってきていて。東京の企業が買収したりとか、大型商業ビルの大規模な構想が白紙撤回されたり。ドラスティックに変わっていく段階だと思っています。様子見だった人たちが動き始める感じ。うちもそうですけど、代替わりで高齢の人たちが若い世代にものを託していくといった時に、この表参道も変わるんだろうなと。中心部の活性化や祭りをやって人を集めても、店に人が立ち寄らない。店がそもそも少ないんですけど。空きテナントや町づくりの構想に若い世代や外からの空気が入れば変わると思うので、その変化の場には立ち会いたいと思っているんです。その中で伝統的なもの、例えば善光寺の存在とか。それを中心にした町の形は変わらないと思うので、大袈裟に祭り上げるようなものではなくて、自然なものとしての良さを感じられるようになるといい。バブルの頃に建物なんかいろんな形に変わってきたんだけど、古いもののよさもどんどん再認識されているじゃないですか。世代交代で。町の景観なんかは古臭いものが、若い世代にとっては新鮮なものだったりしますから。

――ここに来る前に少し町を歩いたんですけど、蔵とかリノベーションしたお店がありますね。ここのギャラリーもそうですけど。

荻原 新しいビルもあるし、古いものも残っている、そのバランスがいい状態を保って欲しいです。長野は、寒いとはいえ気候が安定していて、中心部は雨も少ないし住みやすい町です。町中では観光で見て回るところは少ないのですが、その分、ちょっと足を伸ばせば自然豊かな山々に囲まれています。善光寺参りの後は周辺の高原へいかれる方が多いと思いますが、門前町でのんびりする、という過ごし方も再認識されたらいいなと。それを売りにして何かできないかなと思ってますね。そこから長野に移住したいに、繋がったりするといい。すでに、東京から若い夫婦が移住してきて、クラフトとかをやって生計を立てるとか、そういう人たちが増えています。こうした流れが新しい店をうみ町全体の活性化に繋がるといい。

―東京へも新幹線や車ですぐ行けますし、日帰りできる距離ですからね。

荻原 落ち着いた生活、とかをコンセプトに、できることがありそう。

―観光地とは違う距離感が良いと。

荻原 そうですね。人の動きとかがそうなんでしょうね。中心地は空洞化しているけど、今少し戻ってきている感じがあります。町に人が戻ってきたら、地元のお店も活気づくし、ブランド力のあるお店が出店したり、それでまた地元のお店も頑張るから、って流れがくることを期待しています。うちもその一つになりたい。

―いい循環ですね。

荻原 目的地になるお店が増えれば、どんどんそうなるはず。町としての将来像を考えていて。そうなると、やっぱり本屋が大事になってくると思うんですよ。その町には僕は本屋があって欲しい。

―この辺りの本屋事情はどうなんでしょうか?

荻原 この表参道だけで一番多い時に9軒あったみたいですね。裏道も含めるともっとありました、たかだか2キロもない通りに。

―それは多いですね。

荻原 善光寺を訪れる人が、経本を買っていたというのが大きい。善光寺の参道って、昔は善光寺から離れるにつれて仏具関係のお店が減って、生活雑貨や飲食とかが増えてくるんです。まあ、朝陽館の辺りは新田町の名のとおりほとんど田んぼだったみたいですけどね、最初は。今でも当時の経本が残っていますが、経本一辺倒ではなかったようです。

―そうなんですね。だんだん表参道が伸びてきた?

荻原 明治時期に、長野駅が出来ちゃったからだと思うんです。なんであそこに長野駅を作っちゃったかわかりませんけど。

―確かに一直線ですね。あそこまで全部参道なんですか?

荻原 参道ですね。中央通りなんですけど。いつからか「表参道」って呼ぼう運動があって、あまり呼ばれてないですけどね。明治期に鉄道が入ってきて、参道の下の方が栄えはじめて。県庁の横を流れる裾花川はもともとすぐ近くを流れていたのですが、中心地を避けるように流れも変えてしまいました。

―すごい。

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荻原 昭和ぐらいから、お店から近いそこの交差点が長野の商業の中心になっていきました。百貨店や銀行が立ち並んでいたんです。バブルが過ぎた頃からそれも変わってめっきり人通りも減りました。実はこの辺りはいま一番元気がないところでもあるんです。善光寺からも長野駅からも微妙に遠い。だからここでやるために、このお店を目的にきてくれるようなサービスを考えています。人が行きたくなる場所、居心地の良い空間、そういうものをしっかり作れれば、この町ともしっくりあうんじゃないかと思うんです。

―ここ最近ずっと言われていますけど、これからのリアル店舗は、体験や人が重要になる。モノだけじゃ同じものをネットで買えちゃいますからね。もちろん、「1点モノ」を用意できればいいですけど。

荻原 そうですよね。そういうのをこの1〜2年かけて構築して行こうかと思います。そもそも本は全国一律同じ値段で買えるものですから、競争にもならない。そうすると規模を拡大して効率を上げて行く方向になるんだけど、本が好きな人が求めていることは、店の大きさや品数だけではないように思います。

―楽しみですね。話をお店の歴史に戻しますが、創業は明治の元年なんですね。

荻原 明治元年ということで統一してます。というのは、その前から商店としてはやっていて、当初はいろんなものを置いていたみたいなんです。最初は本屋じゃなくて雑貨や道具なんかも扱っていたようで、質屋的なこともやっていた。その中でも本は高級品だったので置き始めた。それが明治元年と。ちょうど去年が創業150年でした。

―だんだん本屋にシフトしていたった?

荻原 明治元年ごろから本がメインになっていった感じです。諸説あるんですが、朝陽館、という屋号をあげたのがそれくらいと聞いています。最初に見ていただいた、版木を買って刷って製本してをやり始めた時期です。

―本屋さんの歴史に関する本をいくつか読みましたが、版木が地方に買い継がれていって、現地で刷るというのは知らなかったです。明治から本屋をやっている末裔に話を聞けて貴重な体験です。

荻原 あまりいないですよね。僕もここにきて倉庫の発掘から始めたんです。資料とか、当時の物とか、そういうものを見つけて。筆で書かれたものも多いので判読できないもあるのですが、歴史調査みたいで楽しいです。歴史が重荷という側面もあるんですけど、歴史だけは買えないですから。守りたい気持ちが増しましたよね。

―そこに人がいるんですものね。

荻原 日本で、本の流通が、もちろん江戸時代も本の流通はあったと思うけど、印刷に移行していく様を全部見て関わってきたきた本屋って、なかなかないですよね。

―江戸時代の写本とか版画とかから、さっきの版で本を本屋が刷って売る時代があって、印刷製本の技術と流通の仕組みが整って爆発的に本が売れるようになって。

荻原 本がプロパガンダになっていた時代のものもあったり。ひと通り見てきたっていう。

―あの版木からは何部ぐらい刷ってたんでしょうね。

荻原 全部手作業ですからね。版木はまた売っちゃうから。ストックも含めて結構刷っていたんですかね。版木の耐久性にもよるんでしょうけど。

―あ、売上見込みが外れたおかげで、今でも残っている訳ですね。ありがたいですね(笑)。当時、「刷り過ぎだよ」なんて言われてたかもしれない。

荻原 蔵の上にあった本は、埃まみれですが一応新品ですからね。

―同じ本が何冊もあるわけですね。

荻原 そうですね。だいぶ整理しちゃったんですけど。整理を始めた時は、段ボール1箱分、同じ本っていうのもありました。

―貴重だけど、いっぱいある。

荻原 残しているのは、歴史として展示もしたいなと思って。次のお店ではね。

―いいですね。

荻原 デジタルアーカイブという案もあります。僕には昔の言葉もわからない。さらに草書のものとかも解読できないですよね。広く公開して、詳しい人たちに教えてもらえたりしたらいいなと思っています。

―草書を木版にするって、結構な技術ですよね。今みたいにレーザーカッターもないですし。

荻原 すごい労力でしょうね。写本よりは楽かもしれないけど。それでも、その頃は本って高価なものだったんですよね。本の大切さって、今の比にならないものですよね。

―情報収集とか、学ぶためとか、本しかなかったですからね。

荻原 本自体が文化っていいますけど、ゴシップも含めた情報、娯楽、教養、全てをひっくるめた世界だったから、本が中心になってたんですよ。でも今は娯楽はいっぱいあるし、本離れって嘆くけど、それって仕方ないよな、とも思うんですよね。

―ツールとしては、便利な方に流れてしまうのは、人として仕方ないですね。

荻原 そう。だから本屋が本を読むことの効用とか楽しさを大きな声でもっと言ってよかったんじゃないかなと。

―本を売ることだけに注力し過ぎていた気がしますね。電子書籍が出てきた当初も、足の引っ張り合いというか。うまく住み分けができたらよかった。

荻原 数年後とかには、日常の本はデジタルに全て変わっている可能性もある。手元に置きたい本だけを、西欧の中世じゃないですけど、皮張りにしたりして。本一冊何万円とか、紙の本は完全に嗜好品になっていくかもしれないですよね。

―一生モノになっていくことで、価格は高くなるけど紙の本好きはそれを受け入れるしかない。本屋は減りそうですね、新刊本屋さんは。そもそも、新刊本の意味が変わってしまいそう。さっき、その表参道にあるお店でギャッベを売ってたんですね。絨毯みたいな。それが、1枚、200万円だった。でも、百年残るものです、という売り文句で。結構売れている。

荻原 本って作り手の熱量が伝わりにくくなってきていると思うんですよね。ある本が流行れば、その二番煎じの本がたくさん出版されます。どれが一番か、熱量や思入れの有無は、正確な情報なのかも含めて買う側は読むまでわからない。だからこそ、その有象無象の中から選んで、これがいいよ、と言ってあげる役目も本屋にはあると思うんです。

―そうなってきていますね。

荻原 出版社とか、流通のパワー、物量で迫ってきたものを棚に並べる。それが社会の潮流を作るのかもしれないけれど、そうした本屋としての役割は大型店にお任せしてもいいのではないかと思っています。本の作り手にある熱量をどう伝えるか。これが大事になってくる。お客様と本屋に信頼関係がまた生まれたら、市場は変わるはずです。そうすると、この人に聞いてから買いたい、というのが主流になる。東京だと、H.A.Bの松井さんなんかも、そういう流れだなと感じていて。まだ長野では、そこまでできていない気がするんです。

―長野の松本なんかは、いろいろお店が増えてますよね。栞日さんとか。NABO(2019年9月に一旦閉店。再開予定)さんとか。

荻原 新刊書店がないんですよ。ブックカフェや古本屋はあるんです。栞日さんやNABOさんはユニークで面白いですね。ちょっとマニアックなところも含めて品揃えもすごいなと。ただ、いわゆる町の本屋かというと少し違う気がします。そこに何かあるんでしょうね。流通の問題とか。僕らなんかは、話題の新刊本なんて入らないのが当たり前だと思ってますからね。そんな状態で新刊書店をやってきていますから、冷静になれば変だなと思いますけど。麻痺してますね。

―東京なんかで、町の本屋さんに話題の本が入らない。けど、大きな書店では山盛りに積み上げられている。ここ数年、問題化されているけど。

荻原 地方では何年も前から入ってこないのが当たり前になってました。思いますよ、なんで芥川賞とかやるんだろうって。だって発表した途端に入荷できなくなるんですよ。集客力のあるところに集中して商品を投下することが、効率がいいのは十分理解できます。話題性やその一瞬の輝きみたいなことを追っていたら、地方の町の本屋ではついていけないのかもしれません。だからこそ本質的に良いもの、時代を超えて読み続けられる本を探して紹介する役割を深める必要があると思っています。

―そういう側面もあるんですね。少し話を変えます。お店のサイトが充実してますね。

荻原 そうです?

―町の本屋さんって、サイト自体ないところもありますからね。イベントをやるお店は必要だけど。東京でも結構サイトがないお店はあります。たぶん、生活地域以外から人が来る想定はないんでしょう。

荻原 あ、そうですね。僕もそう思いました。僕がこのお店に関わるようになって、お店のことをアピールする場所がないって気がついたんです。商店街のサイトはあったんですけど。検索しても出てこないし。それで、自分でサイトを作って、SNSとかもでも発信しはじめました。店のサイトが重要視されていないのか、地元の人にはあまり見られていないようで、サイトを見た感想もあまり聞いたことがないです。珍しく褒められたので嬉しいです。

―文章がたくさん載ってて、いいなと。

荻原 それは僕の熱量のあるときに(笑)。だから少ない時もある。基本的にはサクッと内容が伝わる分量を心がけています。

―サリンジャーのやつ。

荻原 あれはね。つい熱くなってたくさん書いちゃったんです。あと、SNSも東京と違うんです。インスタとかまだ新しいんですよ。なんとなくの住み分けがあって、フェイスブックにあげると、それがきっかけで本を買いに来てくれるんです。インスタは観光ついでにきてくれる。ツイッターは情報交換の場、みたいな。それで、母体としてサイトがある。広がり方が違うのが面白いですよね。

―面白いですね。

荻原 サイトを作るときに一つ問題になったのが、ロゴとかないんです。こういう下手に歴史のあるお店って、看板はあるんですけどロゴがない。だから急遽作ることになって、そういった概念がなかったみたいです。

―看板を書いた人は有名な人?

荻原 あれは金洞仙史っていう、明治時代の書家ですね。この界隈は、善光寺参りにきた書家や幕末の志士が、逗留しながらあちこちの店で揮毫しているんです。至るところに有名な書家が書いた看板があって。それをめぐるツアーもあるくらいなんですよ。

―えー。それはすごい。

荻原 ブックカバーがあるんですけど。(*2写真)これ見ると朝陽館ってあるんですけど、朝日屋とも書いてあるんです。荻原商館や書肆荻原とかも。まるで統一感がない。

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―マーケティングのへったくれもない(笑)人によって同じお店なのに、呼び方が違うなんてことはありそうですね。

荻原 未だに、あさひ館と呼ばれることもあって。

―朝日と朝陽で、そういうものがすきだったんですか。

荻原 富国強兵の時代ですから。近くに旭山っていうのがあって、その山に朝日が当たって反射するんです。それが長野市を照らす最初の光というので、朝陽学校の校名にもなったと聞いています。長野市には朝陽とかいてアサヒと読む町名もあるので、一層紛らわしい状況になっています。

―この人は?(*2写真・右側)

荻原 オープンの日に、チンドン屋を呼んだみたいなんです。バナナの投げ売りみたいな文句が書いてありますね。

―これは昔から残っている?

荻原 明治二十二年に建て替えた時のチラシですね。当時の実物のチラシが一枚だけ残っています。

―このチラシずっと見てられますね。

荻原 文言を読んでみると当時の世相が反映されているせいか謎が多いですね。こうしてずっと残る可能性もあるので、これからはブランディングもしっかりやろうと思っています。

―最後に、100年以上続けたお店の主として、100年やろうとしている僕へのアドバイスを。

荻原 一緒にやって行きましょうよ。どうしたら100年できますかね。うちもそういう意味では本屋だけでやっていたわけではないですからね。やっぱり、商品の紹介とか、新しいサービスを作ったり。そういったものの対価についてはっきり意識を持つってことかもしれないですね。ビジネスである以上、利益を求めるのが必然ですからね。百年だと自分だけではできないんです。3、4世代かかるわけだから、僕が死んだ後のことも考えて残さないといけない、世代を超えて事業を継承するには、当然のことながら相続に対応して準備しておく必要がありますね。

―ついつい奉仕精神が出ちゃう。本屋って商売として限りなくオープンですよね、地域と。あと買わなくてもいい感じゆえか、売る側も買う側もサービスに対するコスト意識はないですね。薄利なくせに(笑)

荻原 確かに、本屋って公共サービスのように扱われたりしますから。僕らの手で何が残せるのか、さらに次世代に継いでもらえる形で残せるのか。少なくとも今は違った。だから、変えよう。ただやりたい気持ちだけで続けていけるものでもないです。スピード感もどんどん速くなっていますし。自分たちの意思で経営の舵を変えていけるようにしておかないと、何かの構造がずれた時についていけなくなる。取次から送られてくる本を並べるだけで食べていけた時代があったし、そのシステムに本屋は甘えたし、本屋としても助かったんだと思う。だだその結果として自主性や創意工夫といった経営努力を半ば放棄してしまったと反省するところもあるんです。取次や出版社との関係かどうなるかわからない。これまで新刊書店は、出版社への場貸だった。ただそれだと本屋の醍醐味はなくなっちゃうんです。商売としての主体性を取り戻す。そこが本屋を一旦閉じて一から再建する上で一番大事なことなんだと考えています。構造上の柵から解放され自由になる、それは自らの責任で商売をすることでもあります。自由なポジションを取るからには自分たちで本を集める方法を模索し、自分たちの言葉で本を紹介しなくてはいけません。時代のせいにしない、業界のせいにしない、活字離れのせいにしない。本を読むことで得られる満足感や楽しみや喜びを、僕たち本屋がしっかりと伝え新しい読者を増やしていかなくてはいけないと感じています。

―基本に立ち返りつつ。武器を見極めて。

荻原 いろいろ資料を読んでいたら、建て替えの時に店内設計を取次に依頼しているんです。当時は本棚などの什器や販売システムまで全て取次にお願いするしかなかった。だから同時期に建てられた市内にある同じ系統の本屋さんの棚が全部同じなんです。素材から色まで一緒だから店内の雰囲気も同じように感じられて。金太郎飴書店って言いますけど、本だけじゃなくて内装とかも同じになっている。この店を選んでわざわざ行く場所ではなくなってしまっていたんです。どこでもいいというか。本って、不景気とは言いつつ、売上はまだある。それをどう確保していくか。あ、アドバイスになっていないですね。ずっと話してしまう。

―いろいろ勉強になりましたよ。一緒にやっていきましょう。本当に最後です。これを実現したいとかありますか。

荻原 書評がもっと復活して欲しい。本屋さんも書評を書いてる人が増えてますしいい流れだと思います。SNSで本を紹介しあうのもいいし、本屋発で書評をコンテンツにしたいと思っています。地元の学生とかも巻き込んで新しい読者を増やしつつ、様々な読み方や感じ方があることを共有できたらいいなと思いますね、それが活字媒体の面白さだと思うので。巨大な読書会みたいなシステムも面白いかもしれません。

 競争に明け暮れるのとは違った、本に関わる人たちと共創する仕事を増やしたいと思います。

―ありがとうございました。

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