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III. 黙示録の7シリーズ(6-16章):3セットの比較・相関関係 ①封印とラッパ・鉢

前2回では、黙示録の預言を秘めた幻の主要部分の前後、4-5章と17-22章についての考察をざっくり記しました。今回から、幻の主要部分である黙示録6章に始まる7シリーズを通して、何が語られているのか、御霊によって教会が聞くべき預言は何かを追っていきます。

繰り返しになりますが、すでに天では、屠られた子羊(//ユダの獅子、ダビデの根)によって勝利が治められ、封印された巻物が開かれようとしています(5章)。子羊が巻物を受け取り、開く――そのことから、天で繰り広げられている礼拝が、天にのみならず地へ、すべての被造物、被造世界へと、今まさに増幅、拡散しているのです。そして、その地での帰着点、新天新地の到来は約束されています(17-22章)。

とはいえ、ヨハネは、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスに孤軍奮闘を強いられ、その仲間であるキリスト者(教会)も、イエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっています(1:9)。教会は、世の支配の下で、迫害されたり、懐柔を受けたりと、様々に翻弄されています(2-3章)。そのことに気づくことさえなく、実は危機に瀕していることもあるようです。

そんな教会が、今、得るべき勝利とはどのようなものか? そもそも地ではどんな戦いがあり、敵は何なのか? 教会は何を目当てとして戦い、どのように勝利を得るべきなのか? 6-16章に記された封印、ラッパ、鉢の7シリーズを比較しつつ、相関関係をたどりながら、それらの幻に秘められた預言のメッセージを探って参りましょう。

封印とラッパ・鉢

まず初めに、それぞれの幻がどのように開かれたかに着目しましょう。封印の幻は、第5章で巻物を受け取った子羊が、7つの封印を解くことにあわせ、提示されます。(ちなみに、ギリシャ語聖書では、子羊と表記されるのは6:1、第1の封印を開くにあたってのみで、その後の開封については明記がありません。私の手持の日本語訳では、一つ一つ「小羊が・・・」と補われているのですが。)一方、ラッパと鉢の幻は、いずれも7人の御使いが与えられたラッパ・鉢を行使することにあわせて、幻が明らかにされます。

この違いは何でしょうか? 黙示録の冒頭(1:1)と照合してみると、なるほど、そうなのか! と思わされます。

イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。

黙示録1:1

この冒頭の記述から、黙示の”本題”は、御使いを通して明らかにされたこと、つまりラッパと鉢の幻を通して告げられたことだと言えるでしょう。(その前後があっての”本題”なので、いずれも欠くことのできない大切な構成要素であっても!)

ここで、一つ、当り前のこと――けれども、よく看過されているように思われること――も追記します。そもそも7つの封印がされた巻物については、全ての封印が解かれてからでないと、その内容を知ることができません。

黙示録6章の開封のイメージ、とは異なりますが…

つまり、子羊が封印を解くに即して示される幻は、巻物に記されたことというより、むしろ、巻物が封印されていた間に起こってきたことであり、封印が解かれるべき背景ととらえる方が妥当でしょう。すなわち、終末へ向けての地の歴史の総括が、7つの封印を開く中で明らかにされていると受けとめられます。

7つの封印と歴史の概略(1): 4頭の馬と騎手

以下では、封印が開かれるごとに提示される幻についてざっと触れます。

まず、第1から第4までの開封と、第5・第6・第7の開封とでは、幻の内容、性質が明らかに異なります。第1から第4までは、開封に即して、4つの生き物(4-5章で登場!)の号令によって、それぞれ白(6:1-2)、赤(6:3-4)、黒(6:5-6)、青白(6:7-8)の馬と騎手が出現し、それぞれ与えられた道具、権威をもって地に放たれます。第5からはそうではありません。

この4頭の馬と騎手の幻は、捕囚期、裁きと救いを待望するゼカリヤに与えられた幻の最初と最後(第8、4台の戦車)をまとめたものに相当します(ゼカリヤ1:7-17; 6:1-8)。ゼカリヤには、民の帰還とエルサレムの回復、諸国民の裁きと民の救いの預言が告げられたのですが、他の預言と同じく、その成就は頓挫したままになっていました。黙示録においては、終末の巻物が開かれるにあたって、この地、世界で繰り広げられている人類の争いが改めて示されます。
 
まず第1の白い馬の騎手です。彼は弓(矢は?)を持ち、冠が与えられ、「勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った」とあります。この白馬の騎手が誰を指すのか、キリストから反(偽)キリストまで、様々な見解が提唱されています。ここではそういった見解、議論の検証は棚上げとし、世は最初から戦いにまみれているという現実に心したいと思います。そのような中で、勝利を得るように招かれている教会(2:7, 11, 17, 26・28; 3:5, 12, 21)は、誰に追従すべきなのか? 天ではユダの獅子、ダビデの根である小羊なる主が勝利を治められた、そして新しい歌が歌われ、歌声が地にも響き渡ろうとしている(5章)――そんな中で、教会はどのような戦いを、どう戦えばよいのか? 白い馬と騎手により、改めて思い巡らせることになるでしょうか。

第2の赤い馬の騎手に与えられるのは剣で、地から平和を奪い、人々を戦いに駆り立てます。第3の黒い馬の騎手は、秤を手にし、経済、商業を司るようです。そして、残念ながら、人々が相応に満ちたらせるのではなく、秤を操作することで、地に不平等、格差、そして飢饉をもたらします。第4の青白い馬の騎手が司るのは「死」――人々の健康を損ない、病気を患わせるのです。

これらの馬と騎手が放たれた結果は6:8の後半にまとめられています。

彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。

ヨハネの黙示録6:8

四分の一という割合、また詳細はさて置き、これらの馬と騎手が繰り広げていることは、まさに、この地において、最初の人アダムよりこの方、人類がずっとたどってきた歴史ではないでしょうか。人の罪とその結果である呪い、そして死。

ただし、これらの馬と騎手が、すべて天の4つの生き物の声により登場すること、また騎手の権威があくまで与えられたものであることに心留めたいと思います。総じて言えることは、世で起こる戦いがどんなにひどいものであっても、それは神の許しの範疇であり、神の制御、制限を超えるものではないのです。世界で起こるとんでもない事態を目にすると、到底そのようには思えないし、何故まかり通るのかという疑問は絶えません。だからこそ、第5、第6、そして第7の幻へと繋がるのですが・・・ ということで、続きを見ていきましょう。

7つの封印と歴史の概略(2): 「いつまでですか?」の問いと「大いなる日」の到来

第1から第4の騎手の幻はこの地/世の厳しい戦いの現実を提示しているのに対し、第5と第6の封印の開封により示される幻は、その中での殉教者たちの「いつまでですか?」の訴え、そして、それに対する神の答えでもある人類を襲う災害(神と子羊の怒り)の到来です。そして、それぞれで上がった問いに対する答えが、第7の封印が解かれる前の挿入(7章)で示されます。ここに、教会(キリスト者)の天の視座からみた位置づけ、救済史的な存在意義と展望が明らかにされるのです。
 
まず、第5の開封(6:9-11)では、神のことばと証しのために受けた迫害、殉教について記されます。世で戦いが繰り広げられる中、神のことばは、不正、不義、欺瞞、偽善を明らかにします。そして、神のことばに忠実に、その証しに生きようとするなら、迫害(時には殉教)は避け得ない。そのように生きた(殺された)人々の魂が、祭壇の下で、神の裁き(報い)を求め叫んでいます。「いつまでですか?」という根本的な問いは、神の民が世々に訴えた問いです(cf. 詩篇6:4; 13:2-3; 74:9–10; 79:5; 80:4; 89:47; ルカ 18:7)。

それらの人々には白い衣が与えられるのですが、即座に裁きが下されることなく、「もうしばらくの間」の待機が命じられます。「いつまでですか?」との問いに対する答えは、しもべの仲間である者の「数が満ちるまで」と。

さて、この「いつまでですか?」の問いは、いつまで続くのでしょうか? 

他方、第6の開封(6:12-17)では、全人類――地位や貧富に関わらずすべての人々――に及ぶ天変地異が預言されます。それは単なる災害ではなく、神と子羊の大いなる怒り(6:17)。この日については、子羊への言及はないものの、旧約においても数々の預言者が訴え、預言してきたことです(例えば、イザヤ63:4; エレミヤ30:7; ヨエル1:15; 2:1-11; 3:4; ゼファ二ヤ1:7, 14-15, 18)。この日こそ、第5の開封で殉教者が訴求する復讐の日でもあるのです。その日の到来が、今や、子羊が巻物の封印を開く中で、ついにやって来るのです! 

第6の開封でも、その日がいつ、どのようにもたらされるかは触れられず、「誰がそれに耐えられようか」という問いで締めくくられます。しかし、その地への到来は確かだと想起されます。「いつまでですか?」の問い、叫びは、決して虚しくない。その展望から、教会は今をしっかり見据え、み言葉と証しに生きるよう励まされているのです。

第6の封印の後、7章では第5・第6の問いに答えるかのような(いつまで、誰がと示唆する)幕間が挿入されます。この挿入については、後に触れます。そうして、第7の封印が開かれ、て7つのラッパの幻へと展開します。その前に! 世々ささげられてきた聖徒たちの祈りは、決して無駄にはされていない。神の御前に立ち上り、すべては御前の静けさにおいて、聞き遂げられているのです(8:1-5)。

この世/人類の歴史の総括を受けて、御使いによって、ラッパ・鉢の幻が提示されるのです。さて、教会の戦い、勝利はいかに!? です。



【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • 掲載した画像について:典拠は以下のとおりです。(念のため申し添えると、画像のもととなるサイトの記事にはちゃんとあたっておらず、その内容に同意するものでは必ずしもありません。)

◆ラッパと鉢
以下の画像を加工したものです。(なかなかうまくはできないものです💦)
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTEOtM9-MeUguVb7XNyoyLY7AGYNM5i7GlEdKSdlt-zjcN3Z20eDin6VFIrY2UJ_SSOmE4&usqp=CAU

◆4つの馬と騎手
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◆第5の封印:殉教者の叫び
https://afterdeathsite.com/2019/10/29/the-souls-of-the-martyrs/

◆第6の封印:神と子羊の御怒りの日
https://revelationillustrated.com/wp-content/uploads/2020/05/10-Destruction-in-Nature.jpg


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