バンドマン症候群

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ライブと打ち上げを終えた夜。ギターを背負ってマンションの5階にまで階段で上がるとなかなかに息が切れる。建物の外につけられた、錆びた鉄階段は俺が一段昇るたびにがたがたと音を立て、夜中に昇るには薄ら気味悪い。エレベーターが壊れているらしく、修理の業者はしばらく来ないみたいだ。階段には溶けかけた雪が積もっていて、注意しないと足を滑らせそうになる。いっそ滑って落ちてしまってもいいかもな。そんな考えを振り払う。階段を登り切ってから二部屋ほど通り過ぎて、自分の部屋の前にたどり着き、ポストとして開けられたドアの穴に突き刺さったチラシを抜き取る。すべてどうでもいい、家電製品の回収のお知らせとかそんな内容ばかりで溢れていた。チラシお断りの札でも張っておかなきゃな。  
 冬場の静電気に怯えながらドアを開けて、小さな声でただいまという。もちろん帰ってくるのは静寂だ。玄関の壁へ取り付けられた棚に掛かった、もうそこを動くことはないスペアキー。その棚の上に無造作に置かれた映画の半券。お役御免となったタバコの灰皿。開きっぱなしのシューズロッカー。俺は脱いだ靴を揃えることもせず、埃を被り始めたそれらを横切って部屋に入る。  
 ドアを開けると、カーテンが閉まったままの部屋。自動化デバイスで俺が部屋に入った瞬間電気がつけられるようになっている。背負っていたギターケースを半ば投げるようにして部屋の中央に敷かれた大き目のカーペットの上に置き、ソファに座ってスマホを開いた。Xを開いて今日のライブについてのポストを探す。いつもより小さいライブハウスだったこともあり、まだ投稿件数は少ない。そんな中でも、対バンしたバンドが「売れる曲ばかりでつまらなくなった」なんてくだらないアカウントに叩かれているのを見て嗤う。彼らは俺たちに何を求めているのか。俺らだって霞食って生きてるわけじゃないっての。お前らが生きるために会社で稼ぐのと同じように、俺らだって生きるために歌ってんだよ。殺すために歌ってんだよ。そう引用したくなるのを抑える。ある程度スクロールしたら、バンド名、個人名、ライブハウス、思いつく限りの要素を検索して今日の自分の評価を知る。売れる歌を書いて、売れるパフォーマンスをする。音楽に救われていた俺はどこに行ったのだろう。今や音楽は生活のための材料でしかない。  
 一通りのエゴサーチを終えて、俺はストリーミングサービスを開いた。手癖で自分のバンドのページを開く。カバー写真はもう2年以上前に撮ったもので、俺もほかのメンバーも、今よりずっと若い。「自分たちの歌で誰かを救いたい」「あの人に届けたい」そんなアーティスト紹介の文面も、今じゃ考えも変わっているはずなのに書き換えようという気も起らない。音楽で人を救いたいなんて幻想だ。当時はいたのだろう「あの人」とやらだって、数年たてば形骸化してしまった。当時は本当に好きだった元カノだって、数年もたてば思い出の中の一つになってしまって、そこに彼女自身は存在しない。思い出の中の彼女はただ俺の理想を投影する鏡となってしまっている。そんな奴が組み立てるただの音の並びに、言葉の並びに、一体何の意味があるというのだろう?身近だったあの人を大事にすることすらできなかった俺の歌が、何の意味を成すというのか。 俺はそんなことを思いながら自分が書いた文面を嗤った。 
 スマホに飽きてテレビをつけると、今年流行った歌をランキング形式で紹介する番組が放送されていた。俺はどんなランキングなのか気になり、少しの間テレビに視線を向ける。結局のところはTikTokでバズッたバンドだとか、アニメの主題歌を担当したバンドだとかそんなのばかりだ。サビと前後の数秒しか聞いたことがないような曲ばかりがランキングを埋めていく。「好きだった」「愛していたかった」そんな過去形の歌が流行る世界なんてつまらない。酒だタバコだ歌っている歌が「エモい」とか言われる世界なんてくだらない。そんな奴のどこがかっこいいのか。はじめっから大事にしておけよ。後悔ばかり歌うなよ。俺は自分の書く歌や自分自身のことを棚に上げてテレビに文句を言う。10位目前まで見たところでCMに入ったので、そのままチャンネルを回してアニメをつける。もう最終話目前だ。単行本をそろえている俺は結末を知っているけれど。ありきたりな話だ。 ただ人間不信だった主人公の少年が少女に出会い、人を信じることができるようになるが、最終話目前で少女と生き別れてしまうというだけの。
 気が付けば23時を回っていた。20時にライブを終え、バンドメンバーと飯を食って帰ったのが21時、どうやら2時間もスマホやテレビを見ていたらしい。そろそろ風呂に入らなきゃな。浴槽にお湯を張るような時間でもなければそんな気力もないので、シャワーで済ませることにする。脱衣所で脱いだ服をそのまま洗濯機に押し込む。そろそろ回さないと着る服がなくなってしまいそうだ。狭い風呂場に入ってシャワーの栓を開ける。シャワーヘッドがちょうどこちらを向いていたようで、出始めの冷水を真っ向から浴びる羽目になってしまった。水の先を浴槽に向けてお湯が出るのを待つ。数十秒してから手で暖かくなったことを確認してから、髪を濡らす。シャンプーを詰め替え用の容器からそのまま出して洗う。それから洗顔用の石鹸を手に取って泡立てる。ライブの照明で飛ばされないように少し濃いめのメイクをしたので落とすのに苦労する。体を洗ってから、また頭からお湯を被って風呂を出た。冬場の脱衣所は外と大差ないほどに寒い。いや、体が濡れている分より寒いかもしれない。年を取ったらそのうち何とか症候群とやらで倒れるんじゃないか。そのうち暖房器具を買わなきゃな。そう思うだけ思って、ここに引っ越してからの数回の冬を超えている。寝間着を持ってくるのを忘れたのもあって、下着だけ着て上からタオルを羽織って脱衣所を出た。  ベッドの上に脱ぎ捨てた寝間着を着て、ベッドに寝転がる。スマホを充電器に刺して明日の午前8時にアラームをセットする。風呂上がりにすぐに寝落ちできるはずもなく、天井を見つめる。明日は朝からスタジオで、新しく出すアルバムの曲のレコーディングをする日だ。早く寝よう。そう思っているのに、頭の中で流れる短調の丸サ進行は俺を眠らせてはくれない。少し前に別れた女が好きだった歌に使われていたコード進行だ。今度のアルバムでも二曲くらいは丸サ進行が使われている。  
 未練なんてとうに消えている。もうあいつの写真はスマホからすべて消えている。あいつが街で次の、それとも次の次の、彼氏と歩いていても何事もなく隣を過ぎることができるだろう。じゃあどうして?俺は彼女を忘れずにいるのか。彼女といった映画の半券をいまだに捨てずにいるのか。彼女が吸うからと置いていた灰皿を捨てずにいるのか。彼女が好きだといった歌を未だに聞いてしまうのか。答えは簡単だ。売れるから。あいつのことを考えて書いた詩は、あいつのことを歌った言葉は、リアリティがあるって、聴き手が喜んでくれるから。当然だ。本当の話なんだから。良い作品を作るため、手放さずにいるだけ。月がきれいだといったあの人の声を手放さずにいれば、最高の作品になる。それだけの話だ。俺にとって歌うことは過去の傷を晒す自慰行為に過ぎない。既にあいつは作品のために脚色された誰かに過ぎない。あの人が好きなわけじゃない。作品になるあの人を求めているだけだ。「君」に当てはめる誰かが欲しいだけ。もう一度あの人に会って話したいだなんて、そんなことは決して無い。きっと。
 どうにも眠れなくて、俺は部屋を出た。深夜のマンションのベランダの、雪が解けて濡れた柵に腕を置いて月を恋う。あの子がいなくても月は綺麗に、円く、光線を放って周りに虹色の輪を持っている。兎の餅つきというのを見出した先人の気持ちというのも、じっと見ているとわからないでもない。たまには詩人のまねごとをするのも悪くない。「あの子がいなくても月はきれいだ」そうやって頭に浮かんだ言葉をスマホのメモに書きつける。あの日、あの時、こうやって。彼女はこうだった。そうやって彼女を考えては思いついた言葉をメモ帳に殴り書きをする。肌寒い夜だが、一度始めてしまうとこうやっているのをやめられない。
 自分のアーティスト情報を思い出す。結局は、誰かを救いたいなんて嘘だ。最悪な俺を救えるのは音楽だけ。どこかの誰かが書いた歌なんかじゃない。俺が、俺を救うために書いた歌、それだけだ。そのためにバンドメンバーも、聞いてくれる人たちも、ライブハウスの人たちも巻き込んでいる。    
 冷たい空気へと吐いた白い息に、あの人の面影をなぞる。いつかこの情景も「バンドマン症候群」とでも名付けて歌にしてやろう。そのうち彼女が俺の頭から飛び出して行ってくれたら。


蜜柑ぜりい

 〇バンドマン症候群:自分が強く表現したい感情や感覚を、強く感じてしまう病気

          強く感じる感情や感覚は感対象と呼ばれる。

          症状の強さや感対象は、人によって異なる。

          大きく分けて症状には、単純に感度が上がるものと、解像度が上がるもの    がある

          現在の医療技術で治すことはできず、症状を抑える薬もない

          稀に感対象を全く感じなくなり、そのまま衰弱死してしまう場合がある

「ねぇ、好き。」

幾度となく繰り返してきた、いつも通りの言葉。呼応するように、少し冷たい指が軽く絡む。サンキャッチャーの中を屈折した光が、時計のかかった壁、指と指の間の床、横になったまま眺める天井と、見境もなく柔らかい色の影を残していく。

「凪花、」

少し気だるげな声で私の耳を撫でる。絡めていただけだった手を握られて、腕の中に引き寄せられる。大好きな玲の目が私を見ている。ふっと目を細めて笑う。本能的にキスをするのだと解る。目を閉じる。

2023年 3月

ピーーンポーーン。

間の抜けた呼び鈴で目が覚める。いくらか春めいてきたとはいえ、明け方はまだ暗い。玄関に行かなきゃいけないことはわかっているのに、いつまでもただ布団もかけないまま転がっている。目が覚めてもまだ、夢のことをはっきりと覚えている。

ピーーンポーーン

「はいはい。」

ドアの外にいる客人の耳に届くわけもない返事。宅配便を頼んだ覚えはない。それにこのまだ夜も明けきらないうちの不躾な訪問。客人が誰かなど、とうにわかっていた。

「よ。」

まるで何にもないみたいに、風真はそう言った。私はドアを開けただけなのにずかずかと居間に上がり込み、そのまま胡坐をかく。

「お前のことだからこんなことだろうと思ってはいたけど、あまりにも想像通りだな。」

部屋をきょろきょろとひとしきり見回してそう言い放った。失礼ともとれる態度が、今の私には余計な力が抜けてありがたい。彼の心遣いに感謝しつつ甘え、私はまたソファに倒れこんだ。

「風真、何しに来たの?」

解りきったことを聞いた。何しに来たのかは知っているけれど、それを風真がどう私に手渡そうとするのかは分からなかった。ふっと真面目になった風真の目が、私をまっすぐに見た。

「玲、死んだんだろ。」

意外だった。風真なら黙ると思っていたし、私がそれを望んでいたのかもしれない。あるいはいっそ、首に手をかけて殺してほしかったのかもしれない。今の私には生きる力も死ぬ力もない。誰かにどちらかへ突き落してほしかった。早く楽になりたかった。楽になれるならもう何でもよかった。風真がさっき予想通りだといったこの部屋には、光がない。光は私のすべてだったし、私のすべては玲だった。玲が死んで、サンキャッチャーもガラス細工も照明も、全て真っ黒な袋に閉じ込めてしまった。私の返事を聞かないまま、風真は鞄の中に手を入れ、何かをつかんで私に持たせた。

「手紙?」

「違う。便箋だけだよ。これを渡せって言われてたんだ。」

ラリマーのような柔らかい便箋の色は、玲の目の中に滲んでいる光と全く同じだった。条件反射のように涙が零れ落ちる。自分のすべてを切り離してまで遠ざけていたのはこの色だ。ガラス細工が作る影の中に、私は玲を探してしまう。それを見つけるたび、狂おしいほどの言葉にならない感情がせりあがってくるから。もう痛みを感じたくなかったから。見えないように触れないように、蓋をして押し込めていた。

「話してほしい。どうして玲は死んだの?」

混じりけのない風真の声が、心にすっと届く。それに呼応するように、押し込めていた記憶が揺蕩いながら浮上していく。その始まりは、消毒液の匂い。私と玲が出会ったのは、病院だった。

「バンドマン症候群って知ってるよね。」

返事は求めていなかった。風真はうなずきもせず、私の目を見ていた。肩の力が抜けていくような安堵感で、口からこぼれる言葉を止める術を失っていくのが分かった。

「私も玲もね、バンドマン症候群だったの。」

記憶の蓋がはじけ飛ぶ。トリガーは、その言葉だった。

2022年 8月

「凪花さん、あなたは、バンドマン症候群です。」

会社で受けた健康診断にちょっとした数値の異常があり、たまたま受けただけの精密検査のはずだった。私は昨日も今日も明日の明後日も、同じように普通に平凡に生きていくはずだった。

「この病気は、ご存知ですか。」

何か強く表現したいものがある人が罹りやすい病気であるために芸能人の患者も多く、患者の数が少ないわりに知名度が高い。当然私も聞いたことくらいは何度もあったから馴染みのない病名ではなかったけれど、私にとってその言葉は自分自身に関係のない引き出しに入っているものだった。遠い世界で起きている戦争のように、安全圏から診察室を見下ろしているような気がした。お医者さんが他人行儀ともとれる丁寧さで手渡してきた言葉の意味だけを受け取って、思考を通さずうなずいた。淡々と説明がなされ、全ての単語が頭のフィルターに引っかかることなく通過していく。

「同じ病気を持つ人同士で集まる会があります。もしよければご参加ください。」

そう言われたことだけが理解できた。

「ただいま。」

家に帰ると自然と言葉が口を突いて出た。混乱による徒労感で床に倒れこんだ。開けっ放しのカーテンから無遠慮に差し込んでくる光が揺らめいている。私が強く感じると診断されたのは、光だった。感度が上がるタイプではなく、解像度があがるタイプ。何色ともつかない色の光が床を舐めまわすのを目で追う。自分の見ているこの光を表現したいなんておもったこともなかった。どうして私が。特に日常生活に支障の出る症状ではなかったが、こんなにも普通な自分が何かを表現する人の病気にかかっているなど、考えられるはずもなかった。スイッチが切れたように、私は次の日の朝までそうしていた。

次に朝日が目の前に差してきたとき、私はのろのろと起き上がった。そのまま朝食を作って食べ、着替えてメイクをして家を出た。会社で仕事をして家に帰り、夕飯を作って食べてシャワーを浴びて寝た。夕飯の内容は食後にテレビを眺めている間に思い出せなくなっていた。いつも通りに野菜炒めでも作ったんだと思う。

2022年 9月

普通の平凡な自分にしがみついて惰性で一か月を過ごした頃、医者の言葉が頭をよぎった。自分の持病について知りたいという優等生な口実を引っ提げ、紹介カードに書かれた日時が今日であることを確かめて家を出た。今日は休日だから会社がない。普通じゃないことをしているという意識が頭の中で警鐘を鳴らし、暑くもないのに汗をかいた。病院についてチラシの場所を探し、ドアの前に立つ頃には定刻を過ぎてしまっていた。廊下まで少しだけ漏れてくる声がこの会が進行中であることを私に突きつけ、中に入る勇気を毎秒削いでいく。もう帰ろうか。また次に来ればいい。今日は場所が分かっただけでもよかったと自分に早口で言い聞かせて振り返った。

「わっ。」

思わず声が出た。振り返った瞬間に何かにぶつかったのだ。恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは明らかに病院のスタッフではなさそうなラフな格好をした男性だった。戸惑ったような目を私に向け、すみませんと小さく言った。その瞬間、私の目は彼の瞳の澄んだ水縹色の光に、吸い込まれそうになった。

「あの、」

再び声をかけられて、耳に音が戻ってきた。

「大丈夫、ですか。」

そうだ、私この人とぶつかったんだった。たった数秒のはずなのに、ずっと長く見つめていたように彼の光が目に焼き付いていた。こんなにも彼が綺麗だと思うのは、光を精密に感じる私の体質が所以なのだろうかと、あれほど理解できなかったことがすとんと落ちた。

「あの」

自分でも驚く言葉が口から出ていた。

「カフェ、行きませんか。」

言ってしまってから何を言っているんだ私はと焦ったが、彼は意外にも二つ返事で承諾した。名前も知らない彼に連れられて、病院からさほど遠くないカフェに入った。ドアベルがリンリンと音を立て、静かな雰囲気に息が漏れた。

「あそこにいたってことは、あんたもBC?」

私がカプチーノ、彼がブラックを頼んで座った。バンドマン症候群の略だとはすぐにはわからなくて、フリーズした私を見て彼は少し笑う。こんなに誰かの笑顔が美しいと思ったのは初めてだった。

「まあそう思っとくわ。」

ウェイターが飲み物を置いて奥に戻っていくのをぼうっと眺めた。茶色と白を基調としたデザインで、彼の色によく馴染んでいる。客はまばらにいる程度で、時たま食器のぶつかる涼やかな音が鳴るのも心地が良かった。

「俺もBC。感対象は痛み。えーっと、」

そこまで言って彼の言葉は止まり、違和感に顔を上げた。

「あんたって呼ぶのなんか嫌だわ。名前は?」

「凪花。」

どこの誰かもわからない人に名前を言った。初めてのことの恐怖も、彼の目を見ているだけで忘れてしまった。

「俺、玲ね。凪花の感対象は?」

なめらかな声に名前を呼ばれて一瞬思考が硬直する。

「光。」

テンポがずれた返事にも、彼はまた目を細めて笑う。何か綺麗なものを見るような目で私を見てくれるのが嬉しくて、そのあとの言葉はするする出てきたような気がするが、何を話したかはもう覚えていない。帰るころには夕焼けになっていて、またねという玲の声に喉の真下の深いところが痛くなって、私は恋をしていると気づいた。

2022年 10月

2週間前に交換した連絡先から、会いたいとだけ言われた。白と黒のチェックのワンピースを着て、約束した場所に向かう。少し迷ってからつけた花のイヤリングが髪と揺れているのが分かる。

「待った?」

私が着いて五分もたたないうちに玲が来た。まだ集合時刻までは十分程度時間がある。玲も私と会うのを楽しみにしていてくれたのかと思うと嬉しかった。

「待ってないよ。」

目が合うたびにあの光が私の心の一番深くに真っすぐに差し込む。たったそれだけで、私はもう苦しくて、幸せ。

「行こうか。」

玲は私の手を握った。なにか壊れ物にでも触るような優しい手つきだった。

「凪花。」

名前を呼ばれて振り返ると、玲が小さな紙袋を差し出していた。

「なに?」

「さっきそこで買った。凪花に似合うと思って。」

袋を開けると、中に入っていたのはサンキャッチャーだった。きらきらと受ける光に色を与え、紙袋の中でもその美しさが分かった。

「綺麗。」

見とれながら零したたったそれだけの言葉に、玲は嬉しそうに笑った。その時の玲の目の光の色と同じ色を見つけたくて、私はしばらくガラスの中を光が進んでいくのを見ていた。

2022年 11月

「凪花、俺いつまでこうしてればいい?」

玲に俺のどこが一番好きかと聞かれ、私は迷わず目といった。玲は意外だというように目を見開いた。玲には自分の目が普通に見えるらしく、私の見ている玲の目を見せてほしいと言った。世間一般的には外見じゃないところを言うとか、全部って言うとかするようなところだけれど、玲に嘘は通じないのだ。

「んー、あともうちょっと。」

パレットで絵具を混ぜながら言った。デジタルの方がやりやすくても水彩画にしたのは、その方が玲の美しさがもっとずっと描けると思ったから。私の返事を聞いて、玲はまた少し笑った。

「嘘。まだまだかかるんか。いいよ。」

玲は私のすぐ横に巣に座ってじっとしている。目が描きたいんだから動かないでいる必要ないよと言っても、俺が動いたら光の入り方変わって描きにくいだろと言うだけだった。どうして玲はこんなに私の思うことがわかるんだろうと不思議だった。彼の目をのぞき込んでもそこには美しい光があるだけで、玲の心は一つも分からなかった。

2022年 12月

玲は最近私の家に入り浸っている。私が仕事から帰ってくると、フレックスタイム制で働いている玲はもうソファでくつろいでいた。

「おかえり。」

声を聴いただけで分かった。

「調子悪い?」

「平気。」

返ってきた言葉はそれだけだった。少し迷ってから夕飯にしようと声をかけると、軽い返事と同時に立ち上がって食卓に座った。その日玲はご飯を食べてすぐに帰っていった。大丈夫だろうかと心配しながらも、ラインの1通もできなかった。

 少しずつそんな日が増えていった。嫌われてしまったかと不安になるのも束の間、翌日にはまた何事もなかったかのように玲は私の家に来て笑っている。クリスマスが近くなったころにようやく、痛みが増幅されることで些細な体調不良でも玲にはかなりの苦痛になってしまっているのかもしれないと気が付いた。

2023年 1月

「ハッピーニューイヤー。」

お正月は帰省するのかと思っていたが、玲は大みそかに私の家に来て元旦まで泊まった。理由を聞くといつもと違ってへらへらと笑い、帰る家がないんだと言った。聞いちゃいけなかったかと一瞬息が止まっていた。玲はそのちょっと困ったような笑顔のまま言葉を続けた。

「俺、家出少年だからさ。」

音楽がやりたくて、反対する家族から高校卒業と同時に逃げて東京に来たと言った。玲の口から過去のことを聞いたのは初めてだった。その目はどこか遠くを見て、もう笑ってはいなかった。その哀しい横顔に、言葉をこぼしてしまった。

「なんで音楽やめちゃったの?」

玲はちらりと私を見た。それから目を伏せて諦めたように少し笑った。この人はこんな顔をするんだと思った。綺麗だった。

「俺の痛みは、俺にしか伝わんないから。」

2023年 2月

消毒液と清潔の匂いの中に玲といた。あれほど強がっていた玲が、昨日の夜私に初めて気分悪いと言った。痛いとは言わなかったから、なにか違う病気かも知れないと思った。ご飯だよと言っても玲は立たなかったし、目の光はいつもより淡い色をしていた。

「鈴村さん、診察室にどうぞ。」

看護師さんの声にぐったりしていた玲が目を開け、彼の名字を今まで知らなかったことに気づいた。

玲が戻ってくるまで、私は待合室で彼の詩を読んでいた。正月に、ずっと昔のやつだけどと言って玲が貸してくれた手帳には、彼の歌の歌詞なのであろう言葉が敷き詰められていた。その一つ一つをゆっくり咀嚼し、味わって飲み込んでいく。心のある場所をそれが通り過ぎるたびに痛みが走ったが、これは彼の痛みではなく私の痛みなんだと理解した。

「凪花、大丈夫?」

玲が帰ってきて、私の頬に手を添えた。玲の手が濡れた。

 2週間後に精密検査の結果が出た。私は家族でも何でもないから診察室に入ることはできず、持ってきた端末に絵をかいていた。私も痛みをかいてみようと思った。でも玲が戻ってくるころに液晶に移っていたのは、痛みとは程遠い赤だけだった。

「俺、死ぬらしい。」

私の家に帰るなり、玲はそう言った。声のトーンと内容のアンバランスさに脳の処理が追い付かず、目を見開いたまま硬直した。

「え?」

「俺さ、ちょっと前調子悪かったの、すげえ痛かったからなんだよ。」

知ってる、とは言えなかった。ただきっとそれは私が想像していた以上の苦痛だったのだろうと思った。

「それがさ、最近全然痛くなくなって、今までずっとあった感覚が消えるってなんか苦しくて。」

どうして言ってくれなかったんだろう。私と玲の唯一の共通点であるBCの問題であろうことを、玲が私に話してくれなかったことが悲しかった。一つしかない繋がりが、さらに細くなってしまった気がした。でも玲の病気が治ったならいいかと思い直した。玲と同じだったBCがなくなって嫌だとは言えなかった。玲はBCに苦しめられていたのだ。

「よかったね、治って。」

私がそう言うと、玲は困ったように笑った。

「BCの患者の症例で、俺みたいなのもあるにはあるらしいんだけど、みんな死んじゃってるんだって。」

死、という言葉で、私は彼が最初に言っていたことを思い出した。

「なんで。」

かろうじて発することができた言葉はそれだけだった。訳も分からない恐怖が喉元までせり上がり、あとはただ泣きじゃくった。目の前に突きつけられた事実を受け入れたくなかった。玲はまたお正月の時のような寂しい笑い方をしながら私を抱きしめ、頭を撫でた。苦しいのも辛いのも泣きたいのも玲の方なはずなのに、玲は私が落ち着くまでそうしていた。私はそのあとすぐに寝てしまい、玲が運んでくれたらしく次の日の朝起きたらベッドにいた。

「玲?」

まだそこまで遅い時間ではなかったけれど、玲の姿が見当たらなかった。玄関に靴もなく、もう帰ってしまったようだった。

 それから、玲は私の家に来ないどころか、連絡すらつかなくなってしまった。

私が一通り話し終えると、風真は私の仕事場の同僚で玲の高校の同級生だった。高校を卒業しても頻繁に会っていて、仲が良かったらしい。私は看護師さんからかかってきた電話で、玲が死んだことを知った。入院していたのは、私が玲と出会った病院だった。玲のことを何も知らなかった。愛するのに必要なもの以外、玲を知らなかった。

「凪花、俺さ、二人が病気だったことも知らないけどさ。」

風真の優しい声で涙が出ていた。私の手を取る柔らかい手つきに、どうしてか玲の光を思い出す。

「玲のあんなに幸せそうな笑い方、俺、見たことなかったよ。」

「え?」

顔を上げると、風真のまっすぐな視線とまともにぶつかった。

「玲が笑うときは全部自嘲だった。一回だけ、花火を見て笑ってるのを見たけど。」

私の頬を、もうこぼれるなんて程度じゃないくらいの涙が流れ落ちていく。よくわからない感情に息が上がって、言葉が頭の中に浮かんでは沈んでいく。

「凪花の話をするときだけ、ほんと綺麗に笑うんだよ、玲。」

玲の笑顔。私の大好きな玲の目が少し細くなって、柔らかくふっと笑う。

泣きじゃくっている私を見て、風真は立ち上がった。ガサゴソと黒い袋の中を探り、何かを見つけて笑顔で窓辺に向かう。一気にカーテンを開けて、私の方を振り返った。急激な光に対応できず、視界が真っ白になる。涙の中を屈折して、白い世界に色がついていく。風真はカーテンレールに手を伸ばした。

「元気出せよ。」

サンキャッチャーの中に、私を見て笑う玲が見えた。

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