50年の人生


2/4朝、通勤しながらtwitterを開いた。
トレンドに、国内メディアと並列してNew York Times, Washington Post, Reutersのtweetが掲載されており、初報を国内外のメディアから同時に受け取る事態を異様に感じた。


森氏を会見で「適任ではない」と簡潔に指摘したTBSラジオ 澤田記者が、同社『アシタノカレッジ』で以下のように述べた。


2/3午後の発言に対し、新聞各社が夕刻以降電子版にて本件を報道した。
18:00 朝日新聞
21:20~22:40 共同通信、日経、産経新聞、読売、毎日新聞
朝日新聞と、共同通信以降のメディアとの間には大きな時間的空白がある。

その後、日本時間の夜間に海外メディアが本件を取り上げた。

2/4朝、国内テレビ各社が電子版にて本件を報じた。
一番早かったのは 5:30 NHK、またその内容は「海外で批判」
以降9:00から昼にかけ、各社が追う格好となった。

私がtwitterを開いたのは2/4 7:50頃であったため、冒頭に記したような異様な併記状態がもたらされていた。

この倒錯について、澤田記者の取材より「JOC臨時評議員会を取材していた各社の記者は社会部等の所属でないスポーツ担当者であったため、発言の取扱に困惑したのではないか」との指摘。このことから、差別の問題はスポーツ界、政界に留まらずメディアをも浸食していると、氏は考察した。


「皆さんが邪魔だと言われれば、
老害が粗大ごみになったのかもしれませんから、掃いてもらえばいい」(2/4 会見)
「一番大きな問題は世論」
(2/2 スポーツ立国調査会オリ・パラ実施本部 合同役員幹部会)

多数決の原則に則った民主主義は、ポピュリズムと隣り合わせにある。これらの発言の問題は、意思決定の正当性が、[適正な考察への同意]ではなく[根拠を必然としない共感]に依拠している点にある。事実に基づき考察・検討を行い、結論を発表し、必要な根拠を明示し、主権者=国民の同意を得る。この過程を軽視し、「邪魔かどうか」「国民感情がどうか」に終始した意思決定を行う主導者に、もはや民主主義国家の公的事業運営員としての職務遂行能力は存在しないと言うことができる。
そして明白だが、ポピュリズムに基づいた意思決定は妥当な検証・考察を伴わない故に、客観的な公益を元より成果としない点に危険性がある。


「テレビがあるからやりにくい」
「あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなる」
(2/3 JOC臨時評議員会)

先の思想(感情ファースト)は、これらの発言にも連関する。彼に差別発言を躊躇させるものは、批判する人々の「怒り=感情」のみであり、排除行為そのものへの問題意識が存在しない。
なお当然ながら、差別的思想を内在させることと、発言を以て排除を実行することとは全く異なっており、私はここで前者に関する議論を行わない。


不寛容なのは森氏の発言に他ならない。女性の会議の発言に対し「長い」「制限が必要」と発言することは寛容とは対極にある。独占的集団の外にある存在を踏み潰して「寛容な社会」とは、支離滅裂である。


類似事象は、「男社会」「女社会」またあらゆるホモソーシャルにおいて発生しうる。以上に述べた、ポピュリズムと排除行為、独占的集団の利益保持は、フェミニズム・あるいはジェンダーの議論に留まらず如何なるホモソーシャルにおいても容易に起こりうるものであり、私はそれら全てに対して不当な差別行為として反対する。

日本国憲法の施行から74年、男女共同参画基本法の施行から22年経った日本における先の発言。令和よ、私は今日以降、高々50年の人生でどんな変化を目の当たりにするのだろう?と、皮肉を込めて。


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