自我による誘惑 スピリチュアルな教え編(2/2)
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あなたはこの世界では安心安全な我が家にいないので、必ず旅に出ることになります。
そして、自分の家がどこにあるか分かっていようといまいと、あなたは必ずそれを探すことになります。
もしあなたがそれは自分の外側の世界の中にあると信じるなら、探求は徒労に終わることでしょう。
それが存在しないところでそれを探すことになるからです。
あなたは我が家が実は自分の中にあると信じていないので、自分の中を探す方法を思い出せないのです。
自らが望んでいないことを学ぼうとしてきたことに気付いたあなたはここで希望の光を発見します。
あなたが自分のために定めたカリキュラムは、まさしく気が滅入るようなものだったとはいえ、それをありのままに観るなら単に馬鹿げているだけのものであることが知らされるからです。
ゴールに達しないことがゴールを達成する方法ということがあるでしょうか。
今すぐ自分自身の教師の職と自分自身を導くガイドの役を辞すべきです。
この辞職が憂うつに繋がることは決してありません。
それは単に、あなたが自分自身に教えてきたことの正直な評価の結果であり、その結果がもたらした学びの成果の結果であるに過ぎません。
正しい学びの条件は、あなたが用意することも理解することもできないものですが、そうした条件が整った状態においては、あなたは優れた学習者にも優れた教師にもなれます。
しかし、今はまだそうなってはおらず、あなたが設定した学びの状況全体が逆転されるまではそうなることはありません。
自我は、全世界を得て自分の「真の自己」を失う方法をあなたに教えようとしています。
聖霊という正しい教師が教えることは、あなたは自分の「真の自己」を失うことはできないということ、そして、世界には得られるものは何もないということです。
というのも、この世界は、それ自体では何の利益にもならないからです。
利益を全く得られないにもかかわらず、この世界に価値を置き、資力を投じることは、確実に自分を貧しくすることであり、その経費は高くつくことになります。
その投資からは何の利益もないだけでなく、あなたが支払う代価は莫大なものとなります。
なぜなら、この投資はあなた自身の実相である「真の自己」を否定することにより世界の実相を失うという代価をあなたに支払わせ、見返りとして無を与えるだけだからです。
あなたは自分の「真の自己」を売り飛ばすことはできませんが、それについての自覚を売り払うことはできます。
あなたの「真の自己」は知覚できるものではありませんが、あなたが自分の「真の自己」以外のものをより大きな価値のあるものと知覚している間は、自分の「真の自己」を知ることはできません。
自我は自我自身の持つ犠牲や欠乏といった放棄のイメージがあるため、この世界を手放すことに非常に大きな恐れを抱きます。
人は価値があると思っているものを手放すときに抵抗感を抱くのは当然だからです。
それに失望し、裏切られるまでは価値があるように見えるのです。
また、自我はあなたをこの世界に縛り付けておくために、過去を掘り返すこと、また現在を整えること、そして未来を計画することに専念させます。
なぜなら、あなたが過去を掘り返すことによって罪の意識が強化され、現在を整えることで罪悪感が生み出され、また未来を計画することで怖れの信念の維持に役立つからです。
こうして、エゴは幻想に実在性を持たせることに成功します。
あなたにとってこれまで獲得してきたスピリチュアルな知識やテクニックを用いて自己の個別の利益を得ることに未だ価値が置かれているなら、自我による誘惑が完全に機能していることが証明されています。
真の原因のありかが明らかにされないままなら、あなたは問題を実在化させていることになり、そのスピリチュアルな教えを用いて自身の生活の安定を求める、つまり肉体や個人的な自己のアイデンティティを維持し保護するために使用されることになるからです。
自我はこうしてあなたを周りから特別扱いされ、称賛されるようなスピリチュアルヒーローになるよう誘惑します。
他人より秀でた能力を持つこと、つまり分離の概念の強化が自我の目的なのです。
自我にとって全ての人々である兄弟姉妹が全く同じ無垢なる完璧な存在として神に等しく愛されているなんて屈辱でしかありません。
そもそも、神から特別に私だけ愛されたいという原初の願望を叶えるために、一なる自己が分離を夢見て作り出された世界がこの宇宙であるのに、全てを包含し等しく愛されることなんて自我の望みではないからです。
自我は限定や制限された優劣のある特別な愛、他とは違う自分だけの愛だけを求めるのです。
私だけを認めて愛して欲しいのです。
この世界を見渡せば、一人一人がそういった承認を求めて日々生きていることが分かるはずです。
小さな子供でさえ両親に愛されるためなら、自分の弟や妹を母親や父親から遠ざけたり、自分だけものにするために奪ったり競争しようとしたりします。
特別でありたい、違う者でいたいという、こうした自我の願望は神の愛に対する攻撃の想念であるため、あなたは常に罪悪感を持ち続けることになってしまいます。
そしてこの罪悪感という罪の意識があなたに罰を要求するのです。
罪と罰は原因と結果と同じように一対であり、どちらかがあれば必ずもう一方も存在することになります。
この罪の意識は完全に無意識下で否認されているため、否認されたものはこの世界に必ず投影されることは前にも言いました。
こうして罪が要求する罰は、この世界でありとあらゆる見かけ上の問題や対立となって現れます。
あなたの人とは違う特別な存在になりたいという願望が結果的に苦しみを生み出していることが自覚されたなら、それらを叶えてくれると思っていたスピリチュアルな教えやテクニック、そして犠牲や損失を伴ったり、取引きや条件を必要とする神々を崇拝することがもはやあなたを幸せにすることができる選択肢となり得るでしょうか。
自我を教師にするということは、あなたの肉体に苦痛と快楽を与え続けることになってしまいます。
苦痛と快楽は両方とも自我の誘惑によってこの肉体を実在させようとする概念です。
罪は苦痛から快楽へ、そしてまた再び苦痛へと移行します。
どちらの証人も同じものであり、たった一つのメッセージだけを運んできます。
それは、
「あなたはここにあるこの肉体の中に存在しており、あなたは傷つくことがあり得る。あなたは快楽を得ることもできるが、それは苦痛という代価によってのみ可能となる」
というメッセージです。
これらの証人に、さらに数多くの証人が加勢してきます。
罪という苦痛と快楽はそれぞれが異なった名前、姿を持っているが故に異なった言葉で応答してくるかのように見えます。
あなたが快楽を苦痛と呼べば、それは傷つけるものとなり、また苦痛を快楽と呼べば、快楽の陰に隠れて苦痛は感じられなくなります。
見かけや反応は様々でも、自我に誘惑された罪の証人たちが要求してくるものはみな同じなのです。
なぜなら罪の証人たちは常に死の呼びかけだけを聞くからです。
かつてあなたは、招待も依頼もしていないのに、この世界が否応なく自分に押しつけてくるかに見えた一切について、その原因が本当は何なのか、気付いていませんでした。
あなたが一つだけ確信していたことは、苦痛や苦しみをもたらしていると知覚されたさまざまな原因の中に、自分の罪悪は含まれていないということでした。
また、いかなる形でも、自分はそれらの苦痛や苦しみを自分に与えてほしいと求めたりはしなかった、ということでもありました。
このようにしてすべての幻想が生じたのです。
幻想を作り出していたあなたは、それが自らによって作り出されていることが分かっておらず、幻想の実在性はあなたに依存してはいないということになっていました。
それらの幻想の原因が何であれ、それはあなたとは別の何かであり、あなたが見ているものはあなたの心とは分離したものということになります。
あなたは自分の夢の実在性を疑うことはできません。
なぜなら、あなたにはその夢を作り出し、夢が実在しているように見せかける上で、自分が果たしている役割が一切見えていないからです。
全ての原因が自分の心の中にあったことを喜ぶべきです。
なぜなら、自分の外にある出来事や他者に問題の原因があった場合、あなたはその一つひとつに異なった解決策を探さなければならなくなるからです。
この世界には自分の力で対処、改善できる小さな問題もあれば、あなた一人ではどうすることもできない大きな問題もあるかに見えます。
これら全ての問題には一見、解決するための難易度という価値の序列がありそうですが、「真の自己」の顕現である聖霊の眼差しで見られたなら、それが正しい心であるが故に、それらが一様に実在していないことがあなたに知らされます。
全ての問題の原因はあなたの心の中に隠されており、目の前の問題はその影に過ぎません。
あなたは実在しないものを、実在していないところで解決しようとしてきたのです。
スピリチュアルな人生の後半期においてあなたは、これまであなたが自覚していなかった利己的で傲慢な数々の思いがあらゆる場面で顔を覗かせます。
それは、あなたが隠し持っていた密かな罪の願望であり、神の座を横領し自分がこの世界の神となることを望んだことで引き寄せた罰という様々な苦痛の結果でしかありません。
こうしてあなた自身の闇の部分を見ていく過程において、あなたはこれまで開かずの扉になっており自我によって硬く施錠されたパンドラの箱を覗き見るような恐怖を伴います。
しかし、あなたには正しい導き手の聖霊やイエスがついていること、そしてあなたは時間の中における自分の運命の唯一の決定者であることが約束されています。
あなたにはこのパンドラの箱を開ける鍵が今渡されています。
この鍵を捨て去り、またしても死の眠りと邪悪な夢を選ぶのか、それとも鍵を手にして幸せな目醒めと生命の喜びを選ぶのか、その決断を下すのはあなたです。
これまでの学びがあなたの計画したものと全く違うものとして知覚されたとき、あなたは葛藤を覚え、突然人生の方向感覚を失ったように感じるかもしれません。
新しい道へとシフトチェンジされとき、あなたを導くものはあなた自身ではなくなります。
それがどんなに喜ばしく安心で安全で頼りになるか、あなたはまだ知りません。
自分を自分で指揮するという責任からの解放は、あなたを自由にし、本来持っていた力が取り戻されたと感じるでしょう。
なぜなら実在しない問題に対して、あなたがかけてきたありとあらゆる労力というエネルギーの投資から今後一切手を引くからです。
あなたが問題から退いたとき、そこには聖霊による大いなる愛が入ってきてあなたの代わりに完全な働きをしだします。
あなたはきっと唖然とするでしょう。
あなたにとって絶対に不可能と思えた問題が、あなたの予想を超えた形で解決されるからです。
そこに誰かが犠牲になるようなことはありません。
すべてが完璧な形で見事に修復されるのです。
聖霊は、あなたが具体的なものを信じている間はとても具体的に導いてくれます。
これはとても有り難いことではないでしょうか。
時間という迷路の曲がり角やあらゆる選択肢において聖霊は導き、祝福し、慰めてくれる存在だからです。
あなたの信じているものを使って聖霊はあなたを導きます。
それがあなたにとって一番抵抗なく進める道となるからです。
法華経の方便品にも、
と説かれています。
あなたがこれまで学んできたものにこれからも頼るということは、聖霊への信頼の欠如であり疑いの証です。
その結果は当然ながらあなたに苦痛をもたらします。
あなたが学び獲得してきたものではなく、どうか聖霊やイエスに信頼を置いてください。
聖霊を頼りにすれば、神から離れ、分離という闇へと下降してきたその一段一段の進路は変更され、いずれすべての段階を遡って階梯を消し去り世界のすべての夢が取り消されるときがやってきます。
あなたが今まで信じてきた自己への信頼を取り下げ、聖霊にそれを預けられるよう祈っています。
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(1/3)に続く
あなたはもう一人ではありません。
なぜなら、あなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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参考書籍
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