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奇跡講座WB実践117 復習103、104

第一部
レッスン117 復習(レッスン103、104)
103 神は愛なのだから、幸福でもある。
104 私は真に私に属するものだけを求める。

奇跡講座下巻 受講生のためのワーク


奇跡講座/奇跡のコースについてYouTubeにいろいろアップされている。
その中で私が苦手だなと感じていた方がいた。
その方の話し方、笑い方などがなんか気になって内容が入ってこないという感じだった。

それから数ヵ月。
その方の動画を今日なんとなく再生していくつか聞いてみた。
すると不思議なことに気になっていたことは気にならず、話していた内容を聞くことができ、いろんな方の質問にも真理に立ってブレない感じがすごいなと思った。

このことについてとかじゃまったくないけど、
赦しをしていたことで、何かの抵抗が外れたのかな。


こういったことはよくある。
本を読んでも、別に大したことない本だとしか思えないとか、
なんだかわけわかんない本だと思えるとか、
話を聞いてそれはおかしいと感じるとか、
そもそもしぐさが気に入らなくて話が聞けないとか。
それが自分の抵抗が原因だとはとても思えないけれど、
しっかり抵抗しているのだ。

自我は真理に気づいてほしくないから、
必死で真理に向かわせないようにする。
真理から目を背けさせられるなら、どんな手でも使う。


目の前に起きるどんな現象についても、
私の中にある罪悪感の投影なんだと気づき赦しをするようにしている今、
自我は過去の思い出をよく引っ張り出してくる。

あの時のあの人の言動はちょっと違ってたんだな。
あの時気づかないふりなどせずに、挨拶してたらよかったな。
あの頃は買い物に躊躇するってことは一切なかったな。
あの頃は行きたいところに行きやりたいことをやっていたな。
はじめは一頭飼いだったけど多頭飼いになってあの子は不服だったんだろうな(以前飼っていた猫のこと)。
あの子は途中からいじめられるようになって、夜ひとりで寝てて寂しかったろうな(以前飼っていた猫のこと)。

正否の判断、後悔、”今”の否定、罪悪感・・・
それら思い出したことについても赦しをしていく。
そして今を見る。
真の見る。

物質的なことを見るのは分離の見方だ。
分離の見方をしている限り、物質的なことを満たそうとして満たしても、求める幸せには辿り着けなかった。
それはさんざんやってきた。

すべては自分の投影。
過去の私は自分の投影を現実だと信じていた。
過去の出来事に付随して記憶している感情も幻想だ。
論理より感情が先に出る私は、感情に心を引っ張られることが多い。
感情に心を引っ張られるのは、幻想に心を引っ張られること。
くうをつかもうとしているようなものだ。


過去の記憶もひとつひとつが私の誤りを気づかせてくれる。
その誤りとは、私は神に対して罪を犯したと思っていること。
神から分離してしまった、神から離れてしまった。
だから神に罰せられると恐れていること。
神に対してとてつもなく大きな罪悪感を持っていること。

それらを聖霊に修正してもらう。
神から離れたことなど一瞬たりともない。
罰せられることなどひとつもない。
神は愛だ。愛ゆえに罰するという想念がない。


今も真の私は神の中で眠りについている。
神の愛の中で眠りについている。


真に見るならば、
この世界で起きるすべてのことが、
私の信念の誤りを気づかせてくれる。
そして聖霊に誤っていたことを差し出し修正してもらう(赦し)。
真に見るならば、驚異はすべて去っていく。
真に見るならば、怖れるものはなにもない。
真に見るならば、不足しているものは何一つない。

私たちはひとりの神の子。
放蕩している夢を見ている神の子。
目覚めるなら、神は愛によって神の子を抱きしめるだろう。


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