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#7 第1段階【本心に従う】

二〇一五年。父が亡くなった時、母は入院していたため、私が率先していろいろやらなければならないと気張った。

私は親戚付き合いが苦手だった。母に対する親戚の態度も嫌いだったけれど、小さい頃から煩い親戚が嫌いだった。

兄は病気で車椅子で話せない。義姉をないがしろにしたつもりはないけれど、私が動き回るのを見て親戚は義姉をもっと立てろと言ってきた。

新聞に出す文言にも口出しされ、法要に付けるお菓子にはあれが嫌いだこれは食べられないと言われた。遺影選びにも口出しされた。

挙げ句の果てに、「Ruruちゃんは着物着れないでしょ」と決めつけられる。

(着れるわ!)


入院中の母の外出許可をもらって、火葬前に父に会わせる。

とにかく無事に葬儀、法要を済ませられるように。親戚も立てつつ義姉の前になるべく立たないようにと動き回った。

途中、夜に頭痛で動けなくなりLinpと義父母に助けてもらうこともあった。

兄と義姉には愛想よくしながら、あれやこれやと雑務を言い渡す親戚が腹立たしくて仕方なかった。


すべてが終わったとき、私はひとりぶちギレた。発狂しそうだった。

全身にじんましんが出た。


それを見かねたLinpが私がゆっくり羽を伸ばせるようにと提案してくれた。


「東京、ひとりで行ってきたら?」


ありがたく、私はひとり東京で三日間を過ごした。
思い出のパレスホテルに泊まり、エステもした。
ゆっくりウィンドウショッピングを楽しみ、そしてヒーリングも受けた。


そのなかで気づいたのは、私は「父の良い娘」であろうとしたのだということ。
親戚にも家族にもしっかりできる人だと評価されるために。
やりたくもないことばかりガッツリやったのだ。
だからこんなに疲れたし、気が変になりそうになったし、じんましんも出た。


本当は私はどうしたい?

どうしたかった?

何がしたくない?


無理に親戚付き合いをしない。
両親のためにできることはするけれど自分を犠牲にして無理はしない。
と、私は決断した。


何かしようとするとき、なぜそれをしようとしてるのかを考えてみた。
 だって私しかする人がいないから。

しなかったらどうなるのか。
 親戚や家族にあれはどうなったのかと聞かれる。

聞かれるとどうなのか。
 非難される。
 ちゃんとやらない奴だって言われる。

言われるとどうなのか。
 ・・・・
 愛されない。。


万人に愛されなきゃいけないと思っているわけじゃない。
でも万人に愛されたいと思っている。
それが本心。


あー、愛されたいんだね。
そうだねー。
でもほんとはやりたくないよね?
じゃやらなくていいんじゃない?


そうやってひとつひとつ、本心でやりたくないと思っていることを止めていった。


好かれたい、愛されたいという自分を認識してから、この無理しないということが少しうまくできるようになった。


年賀状を書くのも止めた。
それまで毎年出してくれていた方々に申し訳ないかな・・と思ったけれど、
楽しく作れたことがないから止めよう。


お世話になった人だからといって頑張ってお手伝いしていたこともお断りしよう。
手伝うと二日間はなにもしたくなくなるほど疲弊するから。


お客様へのおもてなしも頑張らない。
私のお気に入りのお菓子を出すのは大好きだけれどおもてなし自体は苦手。
お茶が無くなったのを見計らって新しいお茶を用意するとかホントに苦手。

頑張りすぎない。
出しっぱなしもよしとする。
なんならペットボトルの飲み物を用意する。


そうやっていったら、好きなことが少しずつ出来るようになってきた。


なんと言われようと好きな色の服を着よう。
ピンクのスカート。
虹色のワンピース。
子供の服の色が大好きだ!


一流ホテルだろうとスニーカーで行っちゃう。
ヒールは足が疲れて好きじゃない。
たくさん歩きたいからスニーカーが一番!


好きなことをしていくようになったら、行きたい場所がふっと浮かぶようになってきた。

前述の天河大辨財天社もそうだけれど、箱根神社もそうだった。

箱根神社の月次祭に参加したい!
箱根まで行って箱根神社に行って帰ってくる。
タクシードライバーさんに驚かれた。
「他、回らないんですか?せっかく来たのに?」
私にはそれで充分だった。


出雲大社にもお礼参りに行きたいなと思っていたら、出雲大社と厳島神社を巡るツアーが目に入った。
知ったその瞬間に申し込み、二〇一八年のツアーに滑り込みで参加することができた。
出雲大社の神在月の縁結大祭に参加しご祈祷してもらうことができた。



日記を見ると私のやりたいことの記述が初めて二〇一八年に書かれている。

”私は話を聞き、直感をそのまま伝えるだけ”

伝えたことをそのまま受け取ってもらえたら嬉しい、と書いてある。

これがなかなか出来ない。


二〇一九年の始めにはこう書いている。

”体験談だけを話す”

これが本当に出来なかった。
つい知識の部分を話してしまう。


二〇一八年から、私たちのお話を聞きたいという方を我が家に招いてお茶をしていた。

その方のお話や悩みを聞いて、Linpは知識、知恵の面からその方の状況を説明したり、どうしていったらいいかのアドバイスをしていた。

私は自分の体験からピンと来た話をするのだけれど、ついそこに知識の説明も入れてしまう。

でもそもそも説明が下手なので、話してるうちに何を伝えようと話してたのかわからなくなるし、聞いている方の頭の上に?マークが出てるのがわかる。


Linpにも「Ruruが知識の話をするとエネルギーが下がってるよ。」と言われていた。

でも知識を話して「Linpさんすごい!」と言われてるのが羨ましくて、つい私も知ってるもん!みたいな気持ちがでちゃうのだ。

この私も評価されたい!という気持ちにしっかり気づいていきながら、だんだん知識の話はしないよう心がけていった。



二〇一九年四月。
お金に余裕が無くなってきた。

この頃の私は、まだまだ不安な気持ちから問題をどうにかしようと頭で考えていた。

#8  第2段階【崩壊1】へ続く


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