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奇跡講座WB実践263 私の聖なる心眼は、すべてを清らかなものと見る

第二部
5 肉体とは何か
レッスン263
私の聖なる心眼ヴィジョンは、すべてを清らかなものと見る。

奇跡講座下巻 受講生のためのワークブック


私が本当に神に抵抗していること。
私が本気で神に罪を犯したと信じていること。
だから神のもとへなど絶対に還りたくもないと思っていること。
神と、すべての兄弟と、ひとつであるなんて聞きたくもないこと。
すべての兄弟とともに神の救済の道を歩もうなんて思ってないこと。

それらに気づいてから、
これはもう自分にはどうすることもできないことで、
聖霊に委ねるしかないと赦しをし続けている。


今まで赦しを実践するたびに、
私自身が知らなかった私の抵抗が少し外れたのを感じたり、
私自身も周囲にも今までになかった変化を見つけたりと
赦しの実践の結果のようなものを見てきた。


だけど今回は、これといった赦しの結果のようなものに気づかない。
それどころか日々、神に抵抗している自分、神の愛を拒否している自分、神の愛の世界ではなくこの虚無の世界を選んでいる自分を見つけるばかり。

笑顔が減っているのも感じている。


それだけ私が強く抵抗しているということ。
私が強く拒否しているということ。
私が強く罪を信じ、罪悪感を離そうとしていないこと。
私が神から逃げ隠れていたいと願っていること。
この恐れと不安定な虚無の幻想世界に閉じ籠っていたいと思っていること。


赦しをする。
それしかない。
それしかないから今日も赦しをする。
赦しの言葉・・・


本当に私はここから抜け出せるのだろうか。
私の抵抗がすべて取り去られ、心眼で見ることができるようになるんだろうか。

そんな疑問が浮かんでくる。
この疑問は自我からのものに違いない。
だってもう救済は完了しているんだから。
私は心眼で見るようになるし、神のもとに還るのだ。

すぐにはならないに違いない。
そう思って自分を励ます。
すぐになって欲しいと思っているとがっかりし続けてしまう。

やってるからにはすぐそうなって欲しいと望んでしまう。
いつなのか、どのようにかは聖霊が知っている。


今は私にはそのゴールの片鱗すら見えない。

きっとまだ私は足掻いているんだろう。
委ねてはいないのだろう。

その苦しみが表情に出る。

ここを越えた人は輝く笑顔を持っているのかもしれない。
ディビット・ホフ・マイスターさんは笑顔で輝いているらしい。

私もそのようになりたい。
自我に同一化してしまう自分の中に、
かすかに残る神のもとに還りたいという意志で、
今日も数えられるくらいの赦しを繰り返している。

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