358という数字をコース的視点で読み解く

よく街中を歩いていると、すれ違う車や駐車場に止まっている車のナンバープレートが358のものをよく目にします。

今や多くの人にとって人気のあるこの358という数字ですが、振り返ると最初にこの数字を世に広めたのは小林正観さんでしたね。

そういえば、昔よくこの方の本を読んでいた時期がありました。

小林正観さんは、この358という数字について本の中でこのようにおっしゃっていました。

聖なる数字358の不思議

〈小林〉 
お金にまつわる話です。
聖書の中に666は悪魔の数字。358は聖なる数字という記述があるのだそうです。そして、この話を聞いたある50代の人が新しい口座を翌日つくって暗証番号を「0358」にしたところ、20個ぐらいある口座の中で、その口座だけが一度も金額が減らないで増えていくだけだったという報告を半年後ぐらいにしました。

それを聞いたその場にいた20人ぐらいの人たちは全員、翌日口座番号を「0358」に変えました。また車のナンバーを358にすると、突然に燃費が30%ぐらい上がって、私の車は300%燃費がアップしました。
車の設計燃費がリッター3キロなのですが、現在9.9キロで走っています。それもハイオク仕様でリッター3キロのはずなのに、レギュラーを使って9.9キロです。

私の周りの人は何十台もナンバーを358に変えていますが、どの車も燃費がよくなって、さらにはエンジン音が静かになって、ものすごく快適によく走るという報告ばかりが来ています。
358にしたことで悪くなったという例は一件もありません。

徳川将軍で初代と末代の人の名前は知っているでしょうけれども、「何代何々」というのですぐに言うことのできる人は誰でしょう?三代家光、五代綱吉、八代吉宗だけじゃないですか。これも358です。

玄奘三蔵が西遊記で天竺に――北インドのことを当時は天竺と呼びましたが――お経を取りにいきました。そのときに従者として従った3人の妖怪は、
三・沙悟浄(さごじょう)、
五・悟空(ごくう)、
八・八戒(はっかい)
です。

お釈迦様が悟った時が35歳の時の12月8日の朝。お釈迦様は4月8日生まれなので、12月8日というのは35歳と8カ月。
というふうに、確かにいろいろなところで358になっています。
358はパワーを持っている数字なのです。

『宇宙を味方にする方程式』(小林正観・著)

一度この数字を意識しだすと、あらゆるところでこの数字を目にするようになります。

例えば、車のナンバープレートもそうですが、時計を見たら3時58分だったり、買い物の合計金額やおつりが358円だったなどです。

小林正観さんはこの358という数字自体が聖なるものでパワーがあるとおっしゃっていますが、今の僕自身はそのようには思っていません。

なぜなら、聖なる数字に見えるものであっても、それは本質であるものが世界に反映されたものだからです。

本質であるものとは、神の想念であり、愛そのもののことです。

この愛が世界に反映される時、私たちに知覚できるものとなって顕れます。

なぜなら、私たちは自分自身を一つの肉体の中に限定し、その他者から分離された自己だけを信じているからです。

つまり、真理に対して盲目であるため、そしてその真の理由は神や愛をあまりにも恐れているために、神の慈悲によって私たちが恐怖を抱くことがないような形としてこの世界に反映させるからです。

つまり、358という数字自体にパワーがあるわけでは無いけれども、神の愛が私たちに知覚できる形となって顕れた358は神の愛の反響(エコー)と言えます。

358という数字は、はじめ小林正観さんをきっかけとして世界(日本だけかもしれませんが)に広まり開運や幸運を呼ぶものとして、いわゆるラッキーナンバーの1つとして一般にはもてはやされていますが、この世界の普遍的な真理としてこういった神の愛の反映や反響が形となって顕れると私たちの自我(エゴ)は格好のターゲットとして、これらを幻想のレベルで取り扱い分離の方向へと向かわせようとします。

しかし、それさえも完璧なプロセスであるということをお伝えしたいと思います。

というのも、世界の歴史を見ても分かるとおり真理は初め間違った解釈で流布され多くの人の信念となってまず定着されます。

その後、間違った使われ方による様々な痛みの経験を通して、一部の人々の心が真理に対してオープンとなり新たな正しい解釈がそこで受け入れられその結果、他の人々にもその恩恵が少しづつ流れていくというプロセスを辿るからです。

このことを踏まえて、358という数字の独自の解釈をここに記しておきます。

まず、神は神の子を自身の全てを与えることで完全無垢な存在として創造しました。

完全無垢ですから、欠けたものが一切ないということです。

つまり、完璧全能円満であるということです。

この世界で完全に満たされているものの象徴といえば、図形の中では円がそれに値するかと思います。

神の子は神によって神と同じように創造されているので永遠で無限な存在です。

円もまた無限です。

円周率は無限に続きますし、円は無限点の集まりによって出来ています。

三角形は頂点が3個あるからこそ三角形なのであり、円はその頂点が無限個数であるから円なのです。

円とは換言すれば、無限角形と言えます。

円の角度は当たり前ですが360度ですね。

この360という数字から358を引いた数の2という数字。

これらの数字が何のメタファーとなっているのか。

まず、360という数字は先にも述べたとおり神が創造されたままの完璧な存在である神の子がこの数字に対応します。

次に、358という数字はここでは神を代弁する声のイエスや聖霊を当てはめてみます。

最後に、2という数字には神から分離できたと信じている自我、つまりこの肉体が我が身であると今も信じている私たちの全てを当てはめてみます。


つまり、

360=神の子
358=イエス、聖霊
2=自我(私たちが信じている自己)

ということです。

なぜ358がイエスや聖霊で2が自我の私たちなのかと言えば、これはそれぞれの役割の割合を表しています。

それぞれが持つ機能(働き)の割合が358:2ということです。

分かりやすくすると、この場合、2を358で割ることになります。

計算式は次のようになります:

割合=358分の2​

この計算を行うと、割合は約 0.00558659217877 となります。

パーセントで表すと、約 0.558659217877% です。

簡単に言うと、2は358の約0.56%に相当します。

つまり、イエスや聖霊の機能(働き)は私たちの機能(働き)に比べて格段に多いということです。

イエスや聖霊が約99.5%分の働きをしてくれて、たったの約0.5%分だけが私たちが神の子であることを思い出す(自覚する)ために必要な仕事量ということです。

私たちの仕事とは当然これまでの記事で何度も言ってきたとおり赦しのことです。

この世界では赦しだけが私たちの機能(働き)だからです。

そして、その赦しですらも私たちの役割は僅かなものです。

※赦しとは何かについては以下の記事を参考にしてください。
聖霊による赦しの三つのステップ 罪悪感を取り消す方法とは

私たちには赦しの機能(働き)しかないのです。

にもかかわらず、私たちが一人でイエスや聖霊の機能を背負って(奪って)それを行おうとするなら当然ですがこの世界で露頭に迷います。

そうするなら、私たちにはそもそも備わっていない価値判断という機能を使って限定された思考や知覚を用い、身の安全を図るために必死に将来の人生プランを立てなければなりません。

その結果はもともと持ち合わせていないものを無理やり使用しているので、ありもしないものにエネルギーを注ぐことになるため自我に支配された肉体は簡単に疲弊し病に侵されてしまいます。

私たちはイエスや聖霊の機能をこれまで奪い続けていたのです。

聖霊の機能を、あなたが代わりに担おうとしてはならない。あなたの役割がいかにささやかで、聖霊の役割がいかに大きいかを学べるように、聖霊が求めるものだけを聖霊に与えなさい。これが、聖なる瞬間を実に簡単で自然なものとする。それを難しくするのはあなたである。なぜなら、あなたは自分のすべきことがもっとあるはずだという自説を曲げないからである。これほど多くを受け取るためにこれほどわずかに与えるだけでよいという考えは、あなたには受け入れがたく感じられる。そして、自分と聖霊の貢献度にこんなにも極端な差があるということが、自分に対する侮辱ではないと理解することは、あなたにとって非常に難しい。あなたは依然として、自分が理解するということが真理に対し強力に貢献し、真理を真理と為すと信じ込んでいる。だが、あなたは何も理解する必要はないということを、私たちは強調してきた。救済は、今すぐあなたが与えることのできないものは何も要求しないからこそ、容易なのである。(T-18.4:6-7)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちはこれまで自分でしなければならないと信じてきたものをイエスや聖霊のもとに返す度にどんどんと身軽になっていきます。

そして、自らの間違いを認めて、その間違った信念や思考体系を謙虚にイエスや聖霊のもとに差し出す度にそれらは取り消されていくのです。

私たちは手放せば手放すほど自分が得をすること知るべきです。

その助けは今でも変わらず目の前のこの世界にも届いていますし、私たちの真の自己である神の子としてのキリストはこの幻想の夢の世界の外で完全に満たされた状態で在り続けています。

私たちが今現在、自身の罪悪感によってどんな惨めな状態に置かれていると信じていようともイエスや聖霊はそれらを一切看過して、私たちの無垢で内なる真の光を観てくれています。

それは、三角形や四角形といった多角形の外角の和が必ず360度であるように、私たちがどんな姿形をしていようと、これまでにどんな振る舞いをしてこようと、また内側にどんな劣等感や罪悪感といった欠落したアイデンティティを信じているかも関係なく、神はそれらを一切知らず完全なる愛で私たちを神が創造したままの神の子として360度包み込んでいるのです。

ですから、もし私たちが358という数字だけを神聖化させ、また偶像崇拝し続けるのなら、人生の成功や願望実現といったそれぞれの人々がバラバラの思惑で自我の目指す分離のゴールを目指すことになってしまい、そこに待ち受けているのは神の子の死のみとなってしまいます。

しかし、新たな解釈を358という数字に与えるのなら、これらは自我に使われることなく、イエスや聖霊のもとで安全に使用され、私たちの一なる自己のみがわたしであるという目醒めの機会、そしてたった一つのゴールへと辿り着くことに大いに役立つことになるでしょう。

そのためにも私たちの役割や機能をはっきりとさせる事が大切なのです。

そして、イエスや聖霊に信を置いて日々の赦しに専念することの大切さを取り戻して欲しいと思います。

あなたの役割はただ、すべての恐れと憎しみを取り除いてもらいたいし赦されたいというささやかな意欲を、聖霊に差し出すことだけである。(T-18.5:2-5)

奇跡講座/中央アート出版社

358を目にする度、イエスや聖霊の助けが今もここにあること、そして私たちがその手を取る選択をするならばいつでも、何の条件もなく360度の愛で満たされ平安を感じることがすぐさまできることを思い出してください。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
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