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聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(3/3)

聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(1/3)
聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(2/3)


続いて、イエスによるパウロ(別名サウロ)の回心を紹介します。

パウロは熱心にイエス・キリストの教えを人々に伝えた使徒の一人ですが、最初からキリスト信者ではありませんでした。

逆にキリスト教徒を迫害すらしていたほど熱心なユダヤ教徒でした。

ではパウロがどのようにして回心をしたのかこれから見ていきたいと思います。

パウロの回心の出来事は、使徒言行録しとげんこうろくの中で九章、二十二章、二十六章の三回にわたって述べられています。

パウロがイエスの使徒となったのは、イエスが十字架にかかって死に、よみがえって天に昇ったあとのことであり、それまでは、十二弟子を始めとするキリストの信者たちを迫害する者だったということです。

パウロは、パリサイ派のユダヤ人で、著名な律法学者のもとで学んだエリートの学者でした。

彼は、旧約聖書が預言している救い主がナザレ人イエスだとは信じていなかったので、イエスを神の子・救い主だと触れ回るキリスト教徒たちは、神に対する許し難い冒涜を働いていると考えていました。

そのため、パウロは教会を襲っては信徒たちを引きずり出し、次々と牢に入れていました。

パウロは「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き」と聖書は記しています。

パウロ自身が回心前の自分について

「(わたしは)熱心に神に仕えていました」

と断言していることからも分かるように、彼は神への熱心さのゆえにキリストの教会を迫害していたのです。

パウロは神が唯一の方であるとの信仰を持っていましたから、イエスという人を神の子であると宣言することが神への冒涜であると考えたのです。

パウロは、教会を迫害することが神の望みに叶うことだと固く信じていました。

実際には神の望みに反することであるのに、それを神の望みであると思い込んで熱心に行っていた、これがパウロの回心前の状態でした。

このような状態になると、人間はそこからなかなか抜け出すことができなくなります。

自分は正しいこと、すばらしいことをしていると信じて疑わないのですから、その信仰が熱心になればなるほど、逆に泥沼に入り込んでしまうのです。

そして、大祭司の許可を取って、さらに多くのキリスト教徒たちを捕らえようとダマスコという場所に向かっていたとき、彼の身に思いがけないことが起こりました。

突然、天からの光がパウロを照らし、天から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声が聞こえてきたのです。

パウロが驚いて「あなたはどなたですか」と問うと、声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答え、「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる」と指示を与えました。

地面に倒れ伏していたパウロが起き上がると、彼の目は見えなくなっていました。

一方、ダマスコにいるアナニアという弟子のもとに、幻の中でイエスが現れ、サウロを訪れて、もう一度目が見えるようになるようにしてやりなさい、と言います。

キリスト教徒の中にサウロの悪名はとどろき渡り、恐れられていたので、アナニアは、「私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなひどいことをしたかを聞きました」と異議を唱えます。

しかし、イエスが「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」と重ねて命じたため、アナニアは言われたとおりにしました。

アナニアがパウロの上に手を置いて「主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」と言ったとき、パウロの目から鱗のようなものが落ちて、彼は再び見えるようになりました。

これが「目から鱗」ということわざの起源となったのです。

パウロはこのときから回心し、命懸けでイエス・キリストの福音を宣べ伝える者となりました。

それまでユダヤ人だけのものだった聖書(旧約)を、ユダヤ人以外の全人類(異邦人)に届けることを、神から与えられた主な使命として、生きることになりました。

これがイエスによるパウロの回心です。

親鸞聖人しんらんしょうにん弁円べんねんを赦したように、また釈迦がアングリマーラを赦したように、そしてイエスがパウロを赦したように、真の赦しはそこに罪を見ません。

なぜなら、赦しというのは、私があなたの攻撃という闇を超えたところを見て、それを「愛と助けを求める呼びかけ」として捉えるということだからです。

それが「真の自己」によるキリストの心眼ヴィジョンです。

私たちは、例外なくあらゆる状況やあらゆる人々に、その心眼ヴィジョンをもって臨むようにと聖霊に求められています。

もしたった一つでも例外を設けるのなら、罪悪感の闇の中に隠しておきたい部分、つまり絶対に光によって解放されたくない部分が自分の中にある、と言っているのと全く同じです。

罪悪感を闇に包んだままにしておく方法は、それを相手の上に投影し、その一点の闇を相手の中に見ることです。

私たちは生活の中で遭遇する出来事の一つひとつを、聖霊が私たちを助けるために使える機会と見なすことができるのです。

つまり、生まれてから死ぬまで、また、毎日、朝起きてから夜寝るまでの間に起こるすべてのことが、私たちが自分自身を罪悪感のない者として見られるように聖霊に最大限に助けてもらう機会となり得るということです。

しかし、あなたがこれらの機会を観ずに、自身の力のみで事をはたらかせようとするなら、あなたには未だに隠し持っておきたい罪悪感があるということを意味します。

そして、その自力のはからいに比例してあなたは無意識のうちに聖霊のはたらきを制限することになります。

聖霊からの導きが限定されてしまうのは、ひとえに、あなたが少しぐらいの役割なら自分で果せると考えたり、自分の人生の特定の側面ならひとりで対処できると考えたりすることに因る。そのようにして、あなたは聖霊を頼りにならないものにしてしまい、この空想上の頼り甲斐のなさを口実として、特定の闇のレッスンを聖霊から隠し続ける。そしてあなたは、自分が受け入れようとする導きをそのように限定することにより、自らのすべての問題に自分のために答えてくれるものとして、奇跡を当てにすることができなくなっている。(T-14.11:8-4)

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自分の人生において出逢う人々を見るときの見方は、自分自身を見るときの見方と同じです。

したがって、最も扱いにくく、最も問題のある人、つまり執拗に攻撃してきたり邪魔することであなたを非常に困らせ動揺させる人が、実はあなたにとって最大の贈り物であり、あなたを救う奇跡の証人となりえるのです。

しかし、自我はあなたを救済へと導き、救い主になる人々を攻撃し裁くよう命じます。

こうして、この貴重な赦しの機会を互いの罪悪感を強化し合う苦しみの機会に変えてしまうのです。

仏教ではこういった出逢いによる苦しみを怨憎会苦おんぞうえくといいます。

怨憎会苦おんぞうえくは八苦のうちの一つで、この世界では「自分が怨んだり憎んだりしている人とも会わなければならない苦しみ」のことをいいます。

また、八苦とは、この世に生まれた人間として逃れることの出来ない八種類の苦しみのことで「生」「老」「病」「死」の四苦に

愛別離苦あいべつりく(親子や兄弟、夫婦などの愛する人との生別または死別することの悲しみや苦しみのこと)」

求不得苦ぐふとくく(求めているものを得ることが出来ない苦しみのこと)」

五陰盛苦ごうんじょうく(人間のからだや心を形成する五つの要素から生じる苦痛や苦悩のこと)」

怨憎会苦おんぞうえく(自分が怨んだり憎んだりしている人とも会わなければならない苦しみのこと)」

といった四つの四苦を加えたものをいいます。

これは真理が顛倒てんどうしていることによって生じる苦しみです。

顛倒てんどうとは仏教用語であり、引っ繰り返ること、また真実に反した逆さまな考えをすることを意味します。

つまり、自我を教師とすることで実在していないもの(肉体や世界といった分離による概念によって生じさせたもの)に実在性を与えることによって、あたかもそれが実在しているかのように見えるのです。

話を戻して、あなたがそういった憎しみ合う人々との関わりを癒すことができるなら、その時、実はあなたは自分と神との関わりを癒していることになります。

ですから、あなたが他人の中に見て、自分の人生からは除外しておきたいと思うような問題の一つひとつが、実際には、あなたの罪悪感のうちの何らかの部分を手放さずにいられるように、自分からは除外しておきたいという密かな願望を表しているのです。

これが「自我は罪悪感に惹かれている」ということです。

そして、罪悪感に惹かれ、しがみついているための最高の方法は「誰かを攻撃し裁く」ことです。

その矛先が自分でなければ誰でも構いません。

たとえそれが、愛するパートナーや子供であろうと自我は気にしません。

攻撃でさえも愛という名で包んでしまえば、それによって束縛したり、コントロールすることも容認されるのです。

この偽装され歪んだ愛は、あらゆる形でこの世界に浸透しており、それが愛と呼ばれ続ける限り、自我は我が物顔で他人を蹂躙し裁き続けます。

あなたがそうしたい誘惑にかられるときはいつでも、あなたの肩に手を置き、「兄弟よ、もう一度選び直しなさい」 と言ってくれる聖霊、そしてイエスがあなたとともにいるのだと思い出すことが大切です。

そして、その選択は常に「赦すべきか」「赦さずにおくべきか」という選択です。

あなたが他人を赦すことを選ぶという選択は、自分自身を赦すという選択と同じものです。

そこに内側と外側といった違いはありません。

すべてが、あなたが内側で感じているものの投影なのです。

あなたが自分の中で罪悪感を感じているなら、罪悪感は必ず外に投影されます。

神の愛を内に感じていれば、あなたは神の愛を外に延長させていくことになります。

生活の中の人々や状況のすべてが、自分の心という映写機の中にあるものを自分の目で見ることのできる機会としてあなたに与えられてます。

そのすべてが、あなたが別な選択をする機会になるのです。

もう一度言いますが、赦しは私たち自身で実行することはできないものであり、聖霊によって私たちを通して為されるものです。

ですから、何をしたところで間違ってしまうというような立場に自分が置かれているように思えるとき、聖霊を信頼しているならそれが偶然起こっているのではないということが分かるはずです。

これはあなたにとっても、そしてあなたと関わった人にとっても、非常に重要なレッスンの一部となるのです。

そうしたときにあなたがすべきことは、聖霊とともに自分の奥深くに入っていき、あなたなりの言葉で次のように言うことです。

「聞いてください。この人が私に向かって今助けを求めて叫んでいます。私はこの人を自分を攻撃しにきた嫌な奴として見ることはもうしたくありません。そうではなく、私の愛する兄弟として観たいのです。ですからどうか助けてください!」と。

それが本当にあなたの望むゴールであるなら、つまり「私は誰のことをも傷つけたくない」というのが目的であれば、事はなんとかうまく運ぶはずです。

なぜなら、そこに個人的な利益を望む自我の思考体系がないからです。

つまり、同じゴールを目指す兄弟の共通した願いだけがあるからです。

この完全に一致した全体の願いのみが聖霊の教えたいことなのです。

それが、「奇跡」というものです。

奇跡とは外側で起こる何か魔術的なことによって個人的な利益が叶うものではありません。

世界は未だにこのことを奇跡と呼び続けますが、これを追い求めたり頼りにすることはあなたを惨めにさせるだけです。

なぜなら、あなたが偶像を崇拝することで、つまり、神から分離することで今では神に祭り上げられた自我があなたに信じさせたいのは、いつでも以下のようなものだからです。

「あなたは一つの肉体であり、死すべきものの中に生まれ、その脆弱さを免れることはできず、肉体から命じられるままの感情に縛られている存在である。肉体はあなたのできることに限界を設定し、肉体の力だけがあなたのもつ唯一の強さであり、あなたは肉体が到達できる微小な範囲を超えたものは把握できない」

こうして奇跡は奇跡もどきのものによって覆い隠され、その結果、偽りの奇跡の方が今となってはあなたを救う救世主となっています。

そして、その偽りの奇跡があなたの信じている弱さや小ささといった欠乏の穴を埋めてくれるというわけです。

真の奇跡とは、あなたの内側でまずはじめに起こるものであり、世界の見方がこれまでと一変することがその意味になります。

つまり、奇跡とは回心のことであり、これまで間違って見ていた世界や兄弟の見方が逆転することです。

換言すれば、奇跡とはあなたにさらに何かを与えたり、加えたりするものではなく、あなたがこの世界で学んだあらゆる思考体系の誤りを取り消すことなのです。

これが奇跡の唯一の意味です。

奇跡とは何か 奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。それは誤りを取り消すが、知覚を超えるところまで進もうとはせず、赦しの機能を超えようともしない。それゆえに、奇跡は時間の枠内にとどまる。それでもそれは、超時性が戻って愛が目覚めるための道を開く。奇跡がもたらす優しい癒しのもとでは、恐れは必ず消えていくからである。(W-pI.340:13)

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これが、あなたが解決不可能と思えるような状況に直面したときには、常に従うべき原則です。

つまり、解決不可能な状況というのは、たとえば、あなたが「誰も傷つけたくはない」という動機において真摯であるけれども、同時に自分がやらなければならないことをやりたいと思っていて、それをどのようにして行なえばいいのか分からないというような状況に遭遇したときです。

葛藤やジレンマがあるときこそ、あなたは聖霊を頼らなければなりません。

そういう状況で、あなたが言うことのできる最も正直な言葉が、先程述べたような聖霊に対する祈りの文句です。

なぜなら、あなたは自分自身では、何をすべきか知らないからです。

さらに言えば、自分自身が本当は今どこにいて何を望んでいるのかも分かっていないからです。

あなたにとって絶対に確信があると思っているときでもそうです。

けれども、あなたの中にそれを知っている部分が今でも存在します。

ですから、あなたが向うべき相手は内なる聖霊なのです。

それこそが、本当にあなたの問題の答えなのです。

そして、あなたのすべての問題の答えでもあります。

問題とは外側にはありません。

見かけ上問題に見えるものは真の問題の影に過ぎません。

ですから、あなたが気にすべきことは聖霊に頼ってこう述べることです。

「問題が解決されるように、私がこの問題を認識できますように・・・」

何が真の問題で、その問題がどこにあるのかを知らなければ、それが解決されることはありません。

それが本当はすでに解決されていても、あなたがそのことを認識しなければ、あなたにとってはその問題は存続していることになります。

これがこの世界の状態です。

分離という問題が事実上ただ一つの問題であり、それはすでに解決されています。

しかし、その問題が認識されていないので、その解決法も認識されていません。

世界中の誰もが個々に特有の問題を抱えているかに見えますが、それらはみな同じ問題であり、そのすべてを解決する唯一の解決法が受け入れられるためには、それらが一つのものとして認識されなければなりません。

問題が何か別のものだと思い込んでいるときに、その問題がすでに解決されていることが分かるはずがありません。

たとえ答えを与えられたとしても、その妥当性が分からないのです。

それが、今あなたが置かれている立場です。

あなたは答えをもっているのに、依然として何が問題なのか確信がありません。

次々とさまざまな問題が立ち現れ、一つが決着するとすぐにまた別の問題が生じるかに思えます。

まるでそれらには終わりがないかのように見えます。

完全に問題が解決され、心安らかでいられる時間はまったくない。

問題が数多くあると見なしたいという誘惑は、分離という問題を未解決のままにしておきたいという誘惑です。

世界はあなたの前におびただしい数の問題を提起し、そのどれもが異なった答えを要求しているように見えます。

このように知覚することで、あなたは、自分の問題解決法は必ず不備なもので、失敗は避けられないという立場に置かれます。

世界が抱えているかに見える問題のすべてを解決することなど、誰にもできません。

それらは、一見あまりにも多様な形と内容をもち、実に多くのレベルに存在しているため、解決不可能な状況をあなたに突きつけているように見えます。

あなたがそれらのことを思うとき、狼狽と落胆を感じずにはいられません。

なぜなら、これまでの問題を解決したと思ったとたんに、予想もしていなかった別の問題が立ち現れてくるからです。

そのほかの問題は否認という雲に隠れて未解決のまま残っており、ときどき浮かび上がってきてはあなたを悩ませますが、未解決のままで再び隠蔽されてしまいます。

この複雑さはすべて、問題を認識しないことによって、それが解決されないようにするための自我による必死の防衛にほかなりません。

問題がどのような形で現れようと、自分には神からの分離という問題しかないということが認識できたなら、その答えの妥当性が分かるので、それを受け入れることができます。

目の前に立ちはだかるように見えるすべての問題の根底にある一様性を知覚することによって、あなたは自分がその全部を解決する手段を持っていることを理解できるようになります。

そして、あなたは問題を認識するので、その手段を使えるようになります。

何が問題で、何がその答えなのかを聖霊に尋ねることです。

既に知っているとあなたが決めてかかってはいけません。

あなたが抱えていると思っている数多くの多様な問題のすべてから、あなたの心を自由にしようと試みるのです。

あなたにはただ一つの問題しかなかったのに、そのことを認識しそこなってきた、ということを実感しようと努める。

問題は何なのかを尋ね、答えを待ってください。

そうすれば答えは自然と与えられ、それと同時にその解決法も与えられるようになります。

あなたが問題を自分で定義しようとしない度合いに応じて、これはうまくいきます。

こうして、あなたと憎しみ合う関係にある兄弟との間に「聖なる瞬間」という癒しが起こります。

また、あなたはおそらく、自身がもっている罪悪感のすべてを手放すことはできませんが、その必要はありません。

聖なる瞬間に必要な条件として、清くない考えを一つももっていないことが、あなたに要求されているのではない。しかし、そうした考えを一つももち続けたくないと思うことだけは、要求されている。(T-15.4:9)

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癒しのためにただ一つ要求されることは、恐れの不在である。恐れている者たちは癒されてはいないし、癒すこともできない。これは、癒すためには、あなたの心から葛藤が永遠に消え去っていなければならないという意味ではない。 もしそうであったなら、癒しの必要はなかっただろう。しかしそれは、ほんの一瞬であれ、あなたが攻撃せずに愛するということを意味してはいる。一瞬で充分である。奇跡は時間を待つことはしない。(T-27.5:2-8)

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この目醒めにおける進歩をはかる目安となるのは、あなたが未だに自我の攻撃に見舞われることがあるかどうかという点ではなく、ほんの一瞬でも恐れを通り越すこと、つまり攻撃を正当化するのをやめるということを思い出すまでにかかる時間がどれくらい縮まってきているかという点にあります。

内なる教師である聖霊は、あなたが自我の暴発に襲われたとき、決してあなたを裁いたりはしません。

ただ、それらの背後にある自我の力動をあなたが認識することを学ぶように促すだけです。

それにより、あなたがそれを訂正する(誤りを取り消す)のを助けられるようになるからです。

ですから、あなたに必要なことは、自分の問題だと思っているものの実在性について、いくらかでも疑ってみることだけです。

あなたは今、問題を認識することによって、その答えはすでに自分に与えられていることを認識しようとしています。

それにより、問題と答えが一つのところに運ばれて、あなたは平安を得ることができるようになります。

あなたは「ただ一つの問題」と「ただ一つの答え」があるだけだと認識するよう努力するのみです。

この認識の中で、すべての問題が解決されます。

この認識の中に平安があります。

何か困ったことが生じてくるように見えたときには、いつでも速やかに次のように自分に言うことを覚えていてください。

「問題が解決されるように、私がこの問題を認識できますように・・・」

そして、何が問題かについてまったく判断を下さないように努めてください。

神が一切を創造したので、聖霊は一切を赦す。聖霊の機能をあなたが引き受けてはならない。そのようなことをすれば、あなたは自分の機能を忘れてしまう。時間の中では癒しの機能だけを受け入れなさい。なぜなら、それが時間の用途だからである。神は永遠の中で創造するという機能をあなたに与えた。あなたがそれを学ぶ必要はないが、それを望むことを学ぶ必要はある。そのために、すべての学びが作り出された。これが、あなたが必要としていないのに自分で作り出した能力を、聖霊が活用する方法である。それを聖霊に預けなさい! あなたはその使い方を理解していない。聖霊は、あなたが一切を咎めずに見ることを学ぶことによって自分自身を咎めずに見る方法を、あなたに教えてくれる。そうすれば、咎めはあなたにとって実在しなくなり、あなたのすべての誤りは赦されるだろう。(T-9.3:8)

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私から学ぶ赦しは、恐れを取り消すために恐れを用いることはしない。また、実在しないものを実在のものとした上で、それを破壊することもしない。聖霊を通しての赦しは、単に、最初から誤りを超えたところを見ることにより、誤りをあなたにとって実在しないままにしておくことにある。それが実在するという信念を、心の中に入り込ませてはならない。そのようなことをすれば、あなたは自分が赦されるためには、自分が作り出したものを自分で取り消さなければならないということも、信じることになる。結果をもたらさないものは存在しない。そして聖霊にとっては、誤りの結果は存在していない。あらゆる場所とあらゆる側面において、その結果を着実に、首尾一貫して取り消すことにより、聖霊は自我は存在しないと教え、それを証明する。それならば、聖霊の赦しの教えに従いなさい。なぜなら、赦しが聖霊の機能であり、聖霊はそれを完璧に果たす方法を知っているからである。奇跡は自然なものであり、それが起こらないときは、何か間違いが起こったということである、と私が言ったのは、こういう意味であった。奇跡とは単に、聖霊の救済の計画とは何かを自分は理解していないと認識した上で、その計画に従う意欲があるということを示すしるしにすぎない。聖霊の仕事はあなたの機能ではない。このことを受け入れない限り、あなたは自分の機能が何であるかを学ぶことはできない。(T-9.4:5)

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ですから聖霊の赦しの教えに従うことです。

なぜなら、赦しが聖霊の機能であり、聖霊はそれを完璧に果たす方法を知っているからです。

奇跡は自然なものであり、それが起こらないときは、何か間違いが起こったということです。

奇跡とは単に、聖霊の救済の計画とは何かを自分は理解していないと認識した上で、その計画に従う意欲があるということを示すしるしに過ぎません。

聖霊の仕事はあなたの機能ではありません。

このことを受け入れない限り、あなたは自分の機能が何であるかを学ぶことはできないのです。

あなたの父が愛するものを慈愛をもって眺めることは、普遍的な祝福でなくて何だろうか。赦しの延長は聖霊の機能である。それは聖霊に任せておきなさい。あなたは、ただ、延長が可能なもののみを聖霊に与えることだけを、気にかけていなさい。聖霊が使うことのできないような暗い秘密をとっておかずに、聖霊が永遠に延長させていける小さな贈り物を、聖霊に差し出しなさい。聖霊はその一つひとつを取り上げて、それを平安のための強力な力とするだろう。聖霊がそれに祝福を与えずにおくことはなく、いかなる形でもそれを限定することはないだろう。聖霊は、神が聖霊に与えたすべての力にそれをつなげて、それぞれの小さな愛の贈り物をすべての者のための癒しの源とするだろう。あなたが兄弟に差し出す小さな贈り物の一つひとつが、世界を明るく輝かせる。闇を気にかけてはならない。闇は見ずに、あなたの兄弟に眼を向けなさい。そして光を知る聖霊に闇を払いのけてもらいなさい。聖霊は、あなたが信と確信を抱いて静かに微笑みながら兄弟を祝福するたびに、その微笑に光を与えてくれる。(T-22.6:9)

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あなたが助けるようにと聖霊が送ってくる人を助けるために、あなたが具体的に何をすべきかは聖霊が教えてくれます。

そして、あなたが邪魔をしなければ、聖霊はあなたを通して兄弟に語りかけます。

あなたは助けるために導き手を選ぶのであり、誤った選択は助けにならないと覚えておくことです。

それと同時に正しい選択はあなたの助けになるということも覚えておいてください。

今日を境に、あなたが不満の対象としてその役割を与えてきた人を一人選び、そうした不満を退けて、その人の内奥にある無罪性の光を観てみよう努めてみてください。

その人はおそらく、あなたにとっては恐れを抱くような人か、憎んでさえいる人かもしれません。

あるいは、あなたが自分ではその人を愛していると思っているのに、そんなあなたを怒らせ悲しませた人かもしれません。

または、あなたが友と呼んではいるが、時には気難しく扱いにくく思える人、要求がましく依存しあなたを苛立たせる人、そして、あなたがその人に与えた役割によれば、その人が受け入れなくてはならないはずの理想像に忠実に行動してくれないと思える人かもしれません。

しかし、そうした見かけ上の形態を通り越してあなたが赦しを学び、その実践を行なえるよう聖霊は温かく見守っています。

そして、兄弟は「愛と助けを求める呼びかけ」を今でも発し続け、あなたの「愛によるの応答」を待っています。

この兄弟による懇請という攻撃の闇を越えていくには、聖霊という心強い味方を受け入れたいというあなたの意志にかかっています。

聖霊は、まさに文字通りの意味で、あなたの中に存在している。聖霊の声は、あなたがもといた場所でありいずれ再び戻ることになる場所に戻るようにと、あなたに呼びかける声である。この世界にいても、その声だけを聞き、他の声は聞かないということは可能である。 それには、努力と、学ぼうとする強い意欲とが必要である。(T-5.2:3-7)

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あなたが世界を、そしてすべての兄弟姉妹を聖霊とともに新たな見方で観ることが出来るよう祈っています。


聖霊による赦しの三つのステップ 罪悪感を取り消す方法とはに続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


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