見出し画像

退行してるように感じる時

退行してる?


そんな風に感じる知覚が溢れた数日間。


敵対しているように見える人の態度が柔和になったり、
拒絶してるように感じる人が受け入れているように見えたり、
コントロールしてくる人がコントロールしなくなったように見えたり、

赦しを続けてきて、聖霊が私の罪悪感を取り除いてくれていて、
だいぶ罪悪感が薄くなってきたのかなと思えていた。

もう少ししたら心眼で見るということを体感できるんじゃないか。。。
そんな淡い期待まで持ったりして。


言葉によらなくても心が真理を向いていれば、私が自分の罪悪感の投影に気づきさえすれば聖霊は罪悪感を取り去ってくれる・・・。
その思いは多少なりとも私の心を油断させることになっていたのかもしれない。


ここ数日、今まで気にならなくなってきていたことが気になるようになった。
敵対しなくなったように見える人が、再び敵対するように見える。
拒絶しなくなったように見えた人は少しばかり抵抗を見せる。
なんか疲れるなと思ったら、再び人にコントロールされていることに気づく。

疲れているからかと思っていた。
天候のせいか、忙しかったせいか、
そんな風に思っていた。


あ!違う!!
イライラさせてくる人に文句を言いたくなっている自分。
なにその言い方!とムカつく自分。
コントロールに抵抗しようとする自分。

それって私の罪悪感の投影じゃん。
疲れてるとか、暑いとか関係ない。
あの人の言い方とかあの人の態度とか関係ない。
”あの人”はいない。
幻想なんだから。

私だ。
私の投影だ。

あぶなっ!


自我の知覚が私の知覚だと思っていた心を引き剥がす。
引き剥がしたくないって気持ちもちょっと見える。
だけど引き剥がす!

どっちを選ぶ?
自我の知覚を楽しんでこの幻想世界に生き続ける?
それともイエスと聖霊とともに神に帰る道を進む?

もちろん神に帰る道を行く。

行けないよーー
まだまだ全然行けないよーーー
みんなこの世界を現実だって信じてるんだーーー
それに従った方が楽だよーーー
みじめさも無くなるよーーー
手に入れたいものが手に入るよーーー


ううん。
行ける。
行けるってことは決まってることだ。
いつ行けるとか、いまどの辺とか、
それは私にはわからない。
それは私が判断することじゃない。

私は本物を求めてきた。
なにについても本物を知りたかった。
私が得たいものは真実。
たったひとつの真実。
不変の幸せ。完全な平安。

私がイエスとともに在ることで、
みんなが実相世界に気づくんだ。
みんなとともに神に帰るために、
私はイエスとともにいる。

こういう気づきがあると新鮮に赦しをすることができる。

記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!