天上のアオ 12
ゴオオンと遠くから重たい音が響く。
「あれは」
「ああ、安定性が急激に下がってきている」
隣の男は淡々と言った。
わたしの胸からお腹にかけて、もやもやとした不安が広がる。
きっとこれは彼の感覚。そして隣の男も同じものを感じているはずだ。
「巻き戻ったの?」
「そうだ。外界で対話によって俺が引きずり出された結果、奴は著しくバランスを崩した。自己統制を欠いている状態だ。だからこうやって身体感覚と連結した不安が襲ってくる」
それは不可抗力だったのかもしれない。
でも結果的にようやく均衡を保ち始めていた彼の精神は、ふたたびグラグラ揺れるようになってしまった。
「お前の出番だろ。繝ェ繝ウ繝。多数決の結果に反対するのなら、奴の均衡を取り戻してみせろ」
多数決の結果とは、自己の終了。それをわたしは許容できない。
かといって今のわたしに何ができる?
彼はあまりに多くのものを抱えている。そしてそれを自分の力ひとつでなんとかしようとしている。
眼の前に縄の輪が現れた。
そうだね、それもあなたの選択肢のひとつ。
だけどわたしはそれに同意しない。
今も力を振り絞って息をしているはずだ。
その彼の足掻きを無駄にはできない。
「彼に足りないのは助けを求める力。わたしはそれを代行することで均衡を取り戻そうと思う」
「お前、自分が何を言ってるかわかってのか?奴が助けを求められないのは内なる子どもが未だに手つかずで封印されているからだ。お前一人がそれに対抗できるのか?」
「できるかできないかじゃない。これはやらなくちゃいけない。どんな手を使っても生き延びてみせる」
彼には知識があった。素養があった。だから自分に降りかかる痛みの処理をある程度までは自分でおこなえてしまっていた。それがそもそもの間違いだった。そのせいで誰かを頼るという発想は段々と薄れていった。自分でなんとかなるなら他人の力は必要ない、と。
「あの人には少ないけど居場所がまだ残っている。そして自分が助けを求められないタイプの人間だということも知っている。それをなんとかしなきゃいけないのだって知ってる」
「そうだな」
「あの人には逃げ延びて安全を確保できる場所が必要。今いる場所はそうじゃない。あなたもそう思うでしょ?」
「ああ。傷の爆心地で療養なんて気が狂ってるとしか思えねえよ。だけどな、他の選択肢はなかっただろ」
「…ひとつ、ある」
「おい、お前…」
「わかってる。それは彼にとって気が進まないかもしれない。でもこの世で一番安全な場所がしばらくの間手に入る」
今は外界の時間がとても良くない。彼の精神がそこで起こるいろいろなことに耐えられるかわからない。いや、今の均衡を崩した彼には苛酷すぎる。
「だから遠ざけると。いいのかよ。奴は積極的に望んでるわけじゃないだろ」
「少なくともあなたはしばらく眠ることができるよ」
「…確かにそうだ。それは否定できないな」
「あなたにとっても魅力的な提案だと思うけど」
わたしたちパーツにとって、眠りにつくことは安寧を意味する。それは私達だけじゃない。彼にとってもそうだ。特定の傷や感情に飲み込まれずに済むということだ。
「お前の考えていることが単なる対症療法にしかならないことはわかってんだよな」
「わかってる。でも死を先延ばしにはできる」
男は大きくため息をついて首を振る。
「お前はどこまでいってもそうなんだな」
「そうだよ。あなたがどこまでいってもそうあるようにね。わたしは上に行ってみる。彼の表層意識に近いところまで」
「今の状況でそれができんのか」
「試してみないとわからない。だからこそやる価値がある。このシステムはもう限界に近い。だったら外的な要因で治療をおこなうしかないでしょ」
「その選択の幇助をするってことか」
「せめて後押しって言ってほしいな」
「まあいい。俺は眠りたいんだ。安全に処理されることがない限り、本当なら俺が出張るなんてことはなくていいんだ」
その言葉に頬が緩む。
「なに笑ってやがる」
「ううん。あなたも彼の一部なんだなって。本当は怒りたくなんてないんだなって」
「…」
「後悔してるの?」
「後悔は無駄だ。たらればを考えることに意味はない。すでに起こった事象についてあれこれ可能性を考えてもしかたない。けどな、客観的に見れば今の現実の状況は俺が原因だ。そのことは理解してるつもりだ」
「わたしにあなたを責めるつもりはない。わたしたちの間に善悪は存在しない。だけど、あなたがそうやって考えていることがわかってよかった」
「そうかよ」
「うん」
再び暗闇の空を見上げる。
何かがきしむような、大きなものが崩れるような音はまだ響いている。
もう、あまり時間がないかもしれない。
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